月光浴

水というものを、私は好きだと感じたことがない。それがプールの水となればなおさらだ。
水にはいい思い出がない。週に三日のスイミングスクール、朝から晩まで続く練習、塩素の匂い、ふやけて感覚がおかしくなってくる手足の指や、次第にチリチリ痛む肌、くっきり残った日焼けの跡。
母は兄か私、出来れば両方を水泳選手にしたいと考えていた。
その徹底ぶりときたら! 私達が毎日泳げるようにと(私も兄もそんなことは少しも望んでいなかったのに)庭に埋め込み式のプールまで設置したほどだ。
しかし、母の期待とエゴがなみなみ注がれたこのプールこそが一家離散の外ならぬ要因となったのだから、まったく皮肉なものだと思う。

水泳選手ではない人生を選んだ私は、その晩、巨大な水槽のヘリに腰を下ろして、爪先で青い水を蹴っていた。
飛び散る雫は空中に近づくごとに青から透明に、夜の色に、そして月光の黄金へと輝きを変えた。
プールにさざ波が立つ。足を止めたにもかかわらず徐々に大きく広がるそれは、向こう側の端から私の方へ向かって近づいてくる。
やがて、足元に茶色い頭部がぬらりと突き出す。
クロム色の歯を剥き出すその生き物は、眼の無い顔でじっとこちらを見つめた。
宇宙から来た種族も知らぬ怪物、私はこの子にメランという名前をつけて可愛がっている。もちろん誰にも内緒で。
メランのどことなく硬い表情はこう言っているようだ——『ちゃんと見てたの?』

「見てたよ、しっかり。すごく上手だった。あなたは泳ぐために生まれてきたのかもね。私と違って」

私の言葉に気をよくしたメランは再び水中に潜った。
四本のパイプ状器官が水面を引き裂きながら遠のいては近づいて、私もあんなふうに泳げたらよかったのにと考えずにはいられない。
考えてしまう。何トンもの水となってのしかかる重圧からは解放されたはずなのに、私だけがいつまでもこの家に残り、何年も何年もプールを掃除し続けているのは何故だろうかと。
メランが来てからは、彼女を喜ばせるためだと言い訳をかかげてきたけど。

はっと我に返るとメランが水の中から顔だけ出してこちらを窺っていた。
この子はいつだって私をよく見ている。
『別に心配なんかしてないけど』もしこの子が喋れたら、そんなふうに言うかもしれない。それでも私は彼女を安心させてやりたくて笑顔をつくった。

「なんでもないよ。泳ぐの好き?」

私が差し伸ばした手を、メランはふいっと顔を背けることで避けた。気安く触らないで、そう言っているみたいだ。
大きな口から滴る涎が水面に波紋を投げる。

「ねえ、もっと泳いでみせて」

前後に細長い頭がゆらゆら揺れ動く。メランは私のそばから離れようとせず、悪巧みしているときによく見せる表情で何か考え込んでいる。
と、水掻きのある手が伸びてきて、私の腕にペたりと張り付いた。
冷たいと思ったのとバランスを崩したのはほぼ同時。次の瞬間、冷たさは全身に広がった。

「——っ、もー! ひどーい! 何するのほんとにひどい! 寒い! 冷たい!」

今日一番の大声は夜にむなしく響いた。
まんまとプールに引きずり込まれた私を、当の加害者は心なしか楽しそうな様子で見ている。
メランが顔を近づけてきて、鼻先と鼻先が触れ合った。ぬくもりなどあるはずないのに暖かい。

「……心配してくれたの?」

途端に丸い鼻先は離れて、代わりに『フシャー』なんて猫みたいな威嚇。
かと思えば、ちゃぷん、とかすかな音を残して長い頭が水の中に没した。

「メラン?」

水中で体を縮める気配。
次の瞬間、イルカ顔負けの優美さで宙に跳ぶ彼女の姿を、私はぽかんとして見つめていた。
完璧なアーチをえがく尻尾の先から滴る雫がスローモーションで目に焼き付いた。着水地点には黄金の月。満月はかけらとなって飛び散り、私の上にも降り注ぐ。
それを浴びながら急におかしくなって、声を押し殺して笑った。
それでもおさまらないと今度は頭まで水に浸かって笑う。吐き出す泡の向こうに銀色の歯が見えた。

——もう一回。跳んで。

手の動きだけでそう伝えれば、メランはぐっと体を低くした。
私は水面に顔を出して、彼女が闇を切り裂くその一瞬を今か今かと待ち構える。

「メラン」

ときどきこう思う。あなたは私を助けるために来てくれたのね、と。

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