読書中にうっかり眠ってしまったらしいことは、目が覚めてすぐに気がついた。体の横に閉じた文庫本が転がっていたから。
どこまで読んで寝ちゃったんだっけ? 思い出そうとぱらぱらページをめくってみるけどわからない。まあいいや、あとにしよう。
ベッドに肘をついて上半身を起こし耳を澄ましてみる。
やけに静かで物音一つしない。一人暮らしだから当然と言えば当然なんだけど、でも今は昨日から泊まりにきてるレックスとスカーが居るから、誰かしらの声がしてもおかしくないのに。
ベランダに出て庭先を見ると、レックスの車が停まっているはずの場所が空っぽになっていた。
そういえば夕飯の買い出しがどうとか言ってたっけ。起こしてくれれば自分で行くのに……彼女はいっときだってじっとしててくれない。
もちろんそこが好きだし面白いんだけど。そんなことを思いながら、仕方なく部屋の中に戻ろうとした時だった。ベランダに何かが落ちてきたのは。
心臓が飛び出そうなほど驚いて振り返れば、目と鼻の先に人型の陽炎が揺らめいている。一拍遅れて、その幽霊がクルル……と音を奏でた。
「あ、なんだ、エリザ……おかえり」
私の声を合図に光学迷彩が解かれ、幽霊改め人型トカゲが姿を現した。
金属の装甲と斑点模様の浮いた灰色の膚が燃えるような夕陽を受けて輝いている。ただしそれに見とれる暇さえ与えず、私を驚かせてご満悦らしい彼女はさっさと部屋の中へと入っていった。
何とは無しに頭上を仰ぐ。エリザが潜んでいたらしい屋根の上。まさかずっと待ち構えていた訳ではないだろうけど、……結構ヒマなんだろうか。
「二人ともいないみたいよ」
さっき得たばかりの情報をエリザに分けてあげながら、私はベッドの端に腰を下ろした。
返ってきたのは予想通りといえば予想通りな気のない態度と無言だけだったが、慣れているのでいまさら気にはならない。
「スカーはどこ行ったんだろうね?」
狩りか、それともレックスと一緒なのか。車の助手席に行儀よく収まる彼を想像したらちょっと笑えた。
私の“独り言”を聞くのにも、埃をかぶったガラスオブジェを触るのにも飽きたのか、エリザが何気ないふうにこちらに手を伸ばしてきた。
長い人差し指と中指が私の耳のふちをなぞり、私はお返しにその手に頬をすり寄せる。
それに何の意味があるのかと言うと、別に何もない。ただの暇つぶしみたいなもので、からかってからかわれて、ただそれだけ。
二人きりの時にだけ許された一種のゲーム、駆け引き、コミュニケーション。あるいは愛情表現?
私もエリザもそんなこと絶対口にしないけどね。
いつもはだいたいエリザの方が先に飽きて、何事もなかったみたいに離れていく。
だけど今日は少し、違っていた。
スプリングを軋ませベッドに乗り上げたエリザは、どういうつもりか私に覆い被さってきたのだ。
——あ、これはなんか。なんか変なスイッチ入ってる気がする。
「ん? ん? エリザ、あの、わかってると思うけど今は……」
「退屈」
「しっ、知らないよ!」
私が慌てれば慌てるほど面白いらしく、エリザはますます強く肩を掴んでくる。そのまま引き倒されて、あっという間に俯せに組み敷かれた。
「にゃッ、やっ、くるし……も、わかったから。私の負けでいいから……ねえ、ちょっと聞いてる?」
いや、間違いなく聞いてない。背中にのしかかるエリザの身体は離れる気配がない。鋭い爪の先端がかすめた部分がちくりと痛んだ。
「やー、だー! どいてー!」
それでもなおもがいていると、エリザは楽しげな、くすぐるような響きで喉を奏ではじめた。やっぱり私の抵抗を楽しんでいる。
「逃ゲルノ?」
合成音声の声が鼓膜を揺さぶる。急に頭がくらくらして全部どうでもよくなりそうなのが怖かった。
「余裕で逃げる!」
私の理性だってそういつまでも持つもんじゃないんだからね!
また耳元で顫動音。逃げられるものなら、そう言われた気がした。
生温い手がお腹の下に滑り込んできて、かと思えば腰をぐいと持ち上げる。上半身がベッドに沈み込んで顔も枕に沈む。一瞬息ができなくなった。
「待って、やだ、何やって——」
こんな体勢、恥ずかしいなんてもんじゃない。だけどもはや抵抗が追いつかない。
そうこうしているうちに手がシャツの裾にかかって嫌な予感がした、ら、案の定一気にめくり上げられた。しかもキャミソールごと。
「ひゃー!?」
さ、寒い! じゃなくて! なにすんのこの人!
背中をくすぐるエリザの指はいつの間にかじゃれ合いの域を飛び越えた意思を宿している。
「あ、んっ……ん、もういい加減に——」
頭の動きがどんどん鈍くなっていく。ぼーっとして、瞬きすら億劫なような、そんな感じ。
あーもういいかな。なんかもうどうだって……だけどその時視界の端で何かが動いたような気がして、ふっと靄が晴れた。
ぎっ、と何かが軋む音。ドアだ。半端に開いたままにしていたドアの隙間が広がって、そして、そこにはスカーが立っていた。
「レックスガドコニモイナ……イ、……ンダガ……」
「……」
「……」
思いのほか気まずい沈黙が落ちた。
「……スミマセンデシタ」
妙にぎこちない早口で告げたあと、スカーはきびすを返して、競歩の速さで逃げ出した。
そして私はと言えば——無言で立ち上がるエリザの気迫に圧されて反応が遅れてしまった。
我に返った時にはすでに彼女は部屋を出るところで、その背中は廊下をぐんぐん遠ざかっていく。
「ああっ、待っ、だめだって! それ完全に八つ当たりだから! スカー悪くないから! 人の話を聞……スカー逃げてー! 全速力で逃げてー!」
どこか遠くのほうでごめんなさいごめんなさいと繰り返す声が悲鳴に変わった瞬間を、私は聞かなかったことにした。