砕けた天球

「まったく信じられんな。やつら、とんでもないミスをしでかしおって……」
「まさか死んでしまうとはのう。まあしかし、事故なら仕方あるまいて。当人達も十分罰は受けたじゃろ」
「また……お前さんは甘すぎると言うに。だいたい——」
「まあまあ。で、どうするつもりじゃ?」
「P-45k番のクイーンを使うしかあるまい」

エリザがその話を聞いてしまったのは、まったくの偶然からだった。
立ち聞きをするつもりはなく、ただ目的地に行くためにはその通路をどうしても通らねばならなかったので、なるべく急いで立ち去ろうと思っていたところだった。
顔を突き合わせている二人が両方ともエルダークラスとなれば、なおさら邪魔はできない。
そろそろ成人の儀が執り行われる時期だから、きっとその相談をしているのだろう。昔から儀式にはトラブルがつきものであったが、はたして、今回も何か起きたらしい。

とはいえ、とうの昔に儀式を乗り越えたエリザにとってはどうでもいい話ではあった。
……その、はずだったのに。
聞こえたことが信じられずに固まっていると、片方の——顔見知りの方のエルダーが彼女に気づいた。

「おお、嬢ちゃんか。ちょうどいいところに」

皺の多い手がこちらに来いと招いている。エリザが側に近寄り、うやうやしく膝をつくと、白髪の長老は厳粛に頷いて応じた。

「嬢ちゃんはP-45k番のクイーンの担当じゃったな? うむ。実は次の成人式でP-45k番を使うことになってな。明日搬送する。そういう訳じゃから、世話は今日限りで打ち切ってよろしい」


P-45k番。管理重視のそっけない名前をつけられたゼノモーフとエリザの出会いは、数ヵ月前に遡る。
別に自ら望んだわけではない。腐れ縁との狩猟勝負に負け、罰ゲームとして肩代わりさせられたのが生まれたばかりのクイーンの世話だったと言うだけのこと。
このクイーンは成人の儀で使用する目的で飼育している中の一匹である。
小さな頃から育てるのは調教のためだ。プレデターは近年、儀式用ゼノモーフを自分達に従順になるよう品種改良を進めている。
もちろん“殺戮兵器”の改良は困難を極めるし、少々おとなしくできたとしても、いざ儀式が幕を開けた日には利用されたのを知って激昂し、容赦なく殺しにかかってくるであろう。
だがそれは必要なことなのだ。むしろ、裏切られた気持ちも殺意も大きければ大きいほどいい。

ところで、エリザはゼノモーフが好きだった。
それはもちろん、獲物としての話だ。複数を相手にするときなどは、いやがうえにも胸が高鳴る。
だが……いくら極上の獲物であるクイーンとはいえ、こんなに小さくてはまるで興味がわかない。
せいぜい仔猫ほどの大きさしかない女王は、眼の無い顔をこちらに向けると、せいいっぱい伸び上がってエリザの顔を仰ぎ見た。

「だれ?」
「誰でもいい」

この素っ気ない答えは小さな異形の気分を害したようで、尻尾の揺れが乱暴になる。

「わたしは女王よ。ひざまずきなさい」

クイーンは生まれながらにして自分が特別であることを知る。大したものではないか。

「断る」
「なっ……! この無礼者めが!」
「うるさい。黙って」

相手に負けず劣らず気位の高いエリザは早くもうんざりして、さっさと仕事を終わらせて立ち去ることを決めた。

拘束具の調整と給餌。仕事の中身はその二つ。
クイーンの成長速度は兵隊ゼノモーフに比べればずっと緩やかではあるが、それでも一般的な動物とは比べ物にならない。
部屋(と言う名の檻)はあっという間に狭くなるし、拘束具のサイズもすぐに合わなくなってしまうから、こまめな調整が必要とされるのだ。

枷をその細い首に取り付けようとしたとき、それまで黙っていたクイーンの尾が一閃し、床をばしりと打った。
ゆるやかに波打つ特徴的な頭を尊大に反らし、エリザのフェイスマスクを見上げている。

「貴様にわたしを抱き上げる栄誉を与える。有り難く思いなさい」
「断る」
「このっ……! わたしは女王よ! 女王の命令が聞けないっていうの?」
「だとしても“私の”女王ではない。お前がなんであろうと、私には関わりのないこと」

が、どうやらこの幼い女王にはその違いがわからないらしい。女王というものは種族を越えて尊く、特別な存在だと信じきっている。

「いいからさっさとしなさい、命令だと言ってるでしょ!」
「……いい加減にして」

本気でそう思う。だがエリザがどれだけ威嚇しようとも、相手はまったく意に介さず同じ主張を繰り返すばかり。
これでは首輪をつけるのもままならないではないか。大人しくさせるための道具や薬品もないではないが、面倒だし出来れば使いたくない。
仕方なくエリザはクイーンの首根っこを掴み上げると、ほとんど荷物扱いで腕に抱いてやった。
もちろん即座に鎖付きの首輪をはめるのも忘れなかった。
クイーンは自分の主張が通ったのが嬉しいのか、それともエリザの生暖かい肌を気に入ったのか、先程とはうってかわって上機嫌に頭を揺らしている。

「……言っておくけど、今日限りだから」

それから毎日毎日、顔をあわせるたびに“栄誉”を押し付けられるはめになろうとは、このときは夢にも思わなかった。


四方を丈夫な壁に囲まれた殺風景な部屋に足を踏み入れて、まずエリザが感じたのはのしかかるような敵意であった。
毎日欠かさなかった世話の甲斐あってP-45k番は他のどのクイーンをもしのぐ巨躯に育ち、産卵能力も申し分ないであろうと期待されている。
初めて会った時、これが本当に“女王”なのかと疑念を抱かせるほど小さく、か弱かった、あの姿はもうどこにもなかった。

耐酸性の太い鎖をじゃらじゃらと鳴らしながら、クイーンはエリザに飛びかかろうとした。
だが目一杯腕を伸ばしてもぎりぎり目標には届かず、悔しい声が漏れる。
その様子を見てエリザは確信した。この女王は利口にも、なにも言われないうちから自分の行く末を察したのだろうと。

五メートルはあろうかという巨体を見上げる彼女の喉が無感動な顫動音を奏でた。部屋はほとんど真っ暗でも、彼女にはクイーンの体の隅々までがちゃんと見えている。
王冠のような形の頭部も、凶悪で優雅なラインの体も、背中から突き出した細い突起の一本一本ですらも。
その手を、足を、首を苛む枷が抜かりなく取り付けられていることも。

——だが、一つだけ手違いがあった。

槍のように尖った、殺傷能力に秀でた尾の拘束を忘れていたのだ。
クイーンが不穏な動きを見せたことに気づいたときにはすべてが遅すぎた。
大蛇さながらにしなやかな尾は音もなくエリザに飛びかかり、彼女の身体に巻き付いて軽々と宙に浮き上がらせた。
水晶のような歯が生え揃った顔の前まで引き寄せられたエリザの金色のマスクの頬を、鋭く尖った指がするりと撫で上げる。

「好い様ね」

クイーンが勝ち誇る。その顔に向かって、エリザは吐き捨てた。

「小娘が図に乗らないで」

途端に拘束がきつくなる。女王の苛立ちは目に見えて高まり、エリザの骨を軋ませた。

「今すぐ撤回するというのなら、温情をかけてやっても構わない」

巻き付けた尾で、細いウエストをギリギリと締め上げる。
だがそんな緊迫した状況にも関わらず、エリザは武器にも左腕の自爆装置にも触れようともせず、ただクイーンを見据えている。そして、そのことがますます女王を苛立たせた。
とどめがこの小馬鹿にしたような物言いだ。

「小娘が」
「くっ……この……!」

クイーンは噛みつく寸前まで顔を寄せて唸り、その口元からしたたる唾液がエリザの胸元を汚した。
このままたやすく噛み砕ける——クイーンは思った。この距離なら鎖でつながれていようが関係ない。手で触れることもできるし、身体を真っ二つに引き裂くことも、押し潰すこともできる。
“小娘”なんて笑わせる。小娘はどっちなの? こんなに華奢で頼りないくせに。

その時突然、クイーンの胸に理不尽な怒りが込み上げた。
ほんの少し前までは見上げるのも精一杯だった相手が、今はとてもちっぽけに思えることが訳もなく腹立たしくて仕方がなかった。

あんなに大きく見えていたのに。
あんなにわたしを抱きしめてくれたのに。

冷ややかな視線も、乱れない鼓動も、自分とは違う体温も匂いも、もはやすべてが気に食わない。
憎い、憎い、心から憎い!

屈辱を、それもこれ以上ないほどの屈辱を与えてやりたくて、その顔から無理矢理にマスクを剥ぎ取った。
それでもエリザが動じないと見ると今度は着衣に手をかける。金属の装甲はあっけなくひしゃげて、豊かな乳房がこぼれ落ちた。

「……それでお前の気が済むのなら、好きなだけ私を穢せばいい」

金色の瞳は相も変わらずまっすぐクイーンを見据えたまま、一瞬たりとも揺るぎはしない。
負けじと睨み返すクイーンのきつく噛み合わせた歯が、ぎちぎちと軋む。やがて、彼女は叫ぶように言った。

「そういうところが!」
「何なの?」
「気に食わないの! ずっとそうだった! 貴様なんかいらない、貴様なんか……!」

聞く者が聞けば、そこにこらえきれないものが滲んでいることに気づいたかもしれない。
あるいはエリザも気づいているのかもしれないが、少なくとも表情に変化はなく、彼女は一度だけゆっくり瞬きをしただけだった。

「貴様など一瞬で殺せるんだ、今のわたしなら」

言い終わるや否や、クイーンはエリザの片方の脚を乱暴に掴み上げた。程よく筋肉と脂肪がついた太腿にうっすら浮かび上がる血管を、彼女の眼球のない“眼”が見る。
エリザは初めて抵抗らしい抵抗を示し、相手の筋張った腕に爪を立てた。
それでも目を逸らさないのは、声を立てないのは、彼女なりの反骨精神の現れなのだろう。

「本当に好い様」

平たい腹を撫で上げ、乳房を揺らし、喉元を引っ掻く。蛍光色の一滴が、爬虫類じみた肌の上を滑り落ちていった。

「せいぜい後悔するがいいわ。……何もかもを」

そう言って、エリザの頬にぴたりと手を押し当てるクイーンの声は低い。
そこには先程までの燃え滾るような乱暴さに変わってどこか戸惑うような響きがこもっていた。
何に戸惑っているのかなんて、もう自分にも分からない。

だんまりを決め込んでいたエリザの喉が久しく音を奏でたので、はっとしたクイーンは思わず拘束の力を緩めてしまった。
灰色の腕が伸びてくる。頬を包み込む両手はいつかのように生暖かく、不思議な感触がした。

「生憎だけど」と彼女は言う。「後悔なんて時間の無駄でしかないこと、私はしない」

クイーンが覚えている限り、エリザの声はいつでも無感動であった。不機嫌な時でさえ決して声を荒げることはなく、いつでも冷ややかな温度を保っていた。
だから、初めてだった——こんなに柔らかな声を聞いたのは。

長い尻尾から今度こそ力が抜けて、エリザは軽やかに床に降り立った。
乱れた着衣もそのままに、彼女がまず探したのは先程投げ捨てられたマスク。拾い上げ、特に問題はなさそうだと表面の埃を払う。
それを見守るクイーンはもうエリザを捕まえようとはしなかったし、エリザも警戒のそぶりすら見せなかった。

しばらくの間、二人は黙って視線を交わし合っていた。音の無い暗い部屋、まるでこの空間だけ時が止まってしまったかのように。
姿形のまるで違う二人が敵意も恐れもなく見つめ合うその様は、はたから見れば異様ですらあるかもしれない。

やがてふっと息をついたのはエリザの方だった。
もはや振り返ることもないその背中が戸口に達したその時、鎖に繋がれたクイーンは早口に訊いた。

「貴様の名前を知らない」
「名前……?」

思わず振り向き、相手をじっと見る。眼の無い顔がふいと逸れた。
その横顔に向かってエリザは一度は口を開きかけたものの、すぐに思い直したように首を振ると、何も言わずに部屋を出た。
閉じた扉に背を向けて廊下を歩き出す。乱れた装甲を整え、マスクを着け直して、一度も見返ることなく彼女は去った。
明日にはからっぽになる、P-45k番の世界から。

「そんな慰めは必要ない。私にも、お前にもね、……小娘」

——どうせもう二度と会うことは叶わないのだから。

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