最初の嘘を今でも覚えてるの

ふと顔を上げて目に入ったのは、背中を丸めてすごすごと退散する医者の姿。
致命的に明かりの足りないこの部屋でも、彼が表情を引きつらせているのがよくわかった。彼が何から逃げているのかは考えるまでもなくわかった。私の連れだ。
ああかわいそうに、彼にとってハンゾーは適当な話し相手になりえなかったらしい。

そしてそのハンゾーの方を見てみれば、どことなく満足げな様子で床に座していた。
まー、なんでわざわざそんな隅っこに……彼らしいっちゃ彼らしいけど。

「一般人ドン引きさせて遊ぶのやめなよ、まったく性格悪い」

側に近づくとハンゾーは顔を上げたが、そこにはまだ悪戯っぽい色が残っていた。ほんとに呆れた話なんだけど、この人はたまにこういう子供っぽいことをやらかす。
ちゃっかり拝借する気満々で手にしているのは古い日本刀。そんな彼の隣に腰を下ろしつつ私は続けた。

「あとね、あの人にはあんまり構わない方がいいと思うよ。なんか嘘くさいっていうか、普通じゃない感じがしない?」

ロシア人兵士と話をしている医師の姿は適度に怯えて、適度に緊張して、適度に安堵して……要するに現状を考えれば何ら違和感ない態度にしか見えない。
それでも私は彼への不安を抱かずにいられない。それにほら、ハンゾーって人を見る目ゼロだし。

「いや、っていうかこんな話しにきたんじゃないんだけど……何だっけ……忘れた。もういいや」

私が口を閉じた途端に沈黙が伸し掛かってきて、そんなのいつものことなのに急に寂しくなった。
立てた膝に腕を乗せて頬杖をつく。
視線の先で作戦会議中なのは我らがリーダーと美人スナイパー。声までは聞こえないものの、まあ穏やかにやりとりしているようだった。
見たところ、あの二人は自らの未来をまだ信じていた。この訳の分からない地獄から生きて脱出するビジョンを思い浮かべることができるなんて、強い人達だと思う。

逆に自分の運命を察している者もいて、私やハンゾーはこちら側だった。戦うことを諦めたりはしないけど、その結果には——あまり楽観的にはなれない。
もしも生き延びられたら、あの二人はどうなるんだろう。私にはお互い惹かれ合ってるように見えるけど。

そこまで考えた時、突然左隣の男の存在を強烈に意識して、私の背筋は糸で引っ張られでもしたようにまっすぐ伸びた。ぽきり、と骨が鳴る。
ざわつきはじめた心臓と血流に落ち着け落ち着けとそれだけを念じる。
彼は人を愛さない。彼は私を愛さない。だから私も彼を愛さない。私達のこの生温い現状は、ひとえに利害の一致がなせる業だ。あの二人とはまるで違う。
それに、異常な状況下ではしばしば発生するという吊り橋理論なんてのも、どうやら私達には無縁のようだし。
ハンゾーに目を戻すと、その黒い睫毛が伏せられるところだった。瞬きにしては長い間、目をつむっている。

「眠いの?」

感情の読めない眼がこちらを見た。ハンゾーの瞳は黒い——茶色ではなく。

「眠かったらもたれかかってもいいよ?」

返ってきたのはほのかな苦笑。別にからかった訳じゃないんだけど。
この表情を何度見てきたのか、私はもう忘れてしまった。いくつの言葉をはぐらかされてきたのかも忘れたし、自分がどの瞬間から諦めと共に生きるようになったのかも忘れた。

「……ねえ、ちょっとこっち向いて。聞いてもらいたいことがあるから」

にぶい暖色の明かりの中で、ハンゾーの顔はことのほか疲れて見えた。それでも彼はじっと黙って私の言葉を待ってくれている。
その誠実な唇を、私はさっと塞いだ。かさついた唇に触れた瞬間、この地獄に突き落とされてから初めて泣きそうになった。
彼を人を愛さない。彼は私を愛さない。だから私も彼を愛さない……

最期まで、そうありたかった。

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