トライアングル

目が覚めると、デルタはひとりだった。
眠りに落ちる前はたしかに他の姉妹たちと身を寄せ合っていたはずなのに、今はぐしゃぐしゃに乱れた毛布の真ん中に自分ひとりだけがポツンと取り残されていた。
ふいに頭をもたげた心細さは、少数単位の群れで生活する習性のあるヴェロキラプトルにとって理屈や甘えでなく本能的なものだ。
とりわけまだ幼子のデルタにとって、その衝動は抑えがたいものだった。
だがエコーとチャーリーが身を寄せ合っている段ボール箱はぎゅうぎゅうで入れそうにないし、起こされて機嫌が悪いブルーには追い払われてしまった。

うなだれて戻る寝床には姉妹の温もりも自分の温度も、もはや残ってはいない。
床に散らかったままのおもちゃのひとつが隙間風に吹かれて転がってくる。
真っ赤なボールはデルタの一番のお気に入りだったが、今日に限ってはなぜか苛立ちをかきたてられてしかたなく、腹いせに力いっぱい牙を食い込ませると、そのまま首を振って壁めがけて叩きつけた。勢いではね返って戻ってきたボールは悲鳴の一つも発しない。
諦めて体を丸めようとした矢先、ふいに頭上に影がさし、デルタははじかれたように顔を上げた。

「おはよー。起きちゃったね。だっこする?」

小さな恐竜と人間の視線が絡みあい、後ろ髪を束ねた人間は優しい声音でもう一度繰り返した。

「だっこしよっか?」

彼女は名をニーナといい、仕事はヴェロキラプトル研究計画における飼育・調教アドバイザーである。
むろんデルタにとっては相手の名前や立場などどうでもいいことで、『よく見かける生き物』『餌をくれる生き物』『おもちゃをくれる生き物』という認識でしかなかったが。
床にしゃがみ込んで両腕を広げる馴れ馴れしい人間を、デルタは歯をむき出して睨み上げた。
人間の言語など理解できなくても、これまでの経験や観察から相手の意図するところを読み解くくらいはたやすいことだ。
この生き物が無礼にも自分に触ろうとしていることが腹立たしかった。
デルタの長い尾が天高く持ち上がる。それが意味するところは敵意と警告であり、さらに頭を低く下げた姿勢で「シャーッ」と息を荒げると、ニーナの顔に目にも明らかな落胆が浮かぶ。
少しのあいだ、ふたりは黙って見つめあった。
だがデルタがもう一度脅しをかけると人間はしぶしぶ立ち上がり、我関せずで熟睡しているエコーとチャーリーのそばを通って部屋を出ていった。

思い通りに相手を追い払えたことに満足して、そして自分の強さと賢さにも満足して、小さなラプトルは勇ましく足を踏み鳴らす。
姉のブルーには及ばないかもしれないが、デルタはずっと自分自身を強くて賢いと信じていたし、それが今こうして証明されたことが誇らしかった。
そんな彼女に一つだけ誤算があったとしたら、それはニーナの諦めの悪さだろう。
いそいそと戻ってきた彼女の手には大きな布のようなものが握られていて、デルタはそれに見覚えがあるような気がした。
正確には、その匂いに。
思案するデルタの鼻先が持ち上がり、餌の匂いを探すときのように注意深く周囲の空気を吸い込んだ。後脚のかぎ爪が床を叩く。一歩また一歩と人間との距離を縮める彼女の尻尾はさきほどよりも低い位置でゆらゆら揺れ動いている。

「大丈夫だからね、いじめないから一緒に寝ようね」

デルタは返事をする代わりに、どこか鳥類じみたしぐさで、きょときょとと左右に首をかたむけた。
こちらに向けて差しのばされる腕を今度は黙って受け入れる。彼女の小さな体はいともたやすく宙に浮き、オーウェンのTシャツにすっぽり包み込まれたまま、ニーナの両腕に収まった。

「よしよし……いい子いい子。やっぱり“お母さん”の匂いがある方がいいよね」

まるで生まれたての赤ん坊のような格好を取らされたままのデルタが頭上を仰ぐと、嬉しそうなニーナと視線が絡み合う。
嗅ぎ慣れたオーウェンの匂いに混じるニーナの気配はデルタを落ち着かない気持ちにさせたが、それは不快感と呼ぶには少し違う。
抱き上げられるのは思ったほど嫌ではなく……いや、むしろそう感じることが何か裏切りのようだからこそ落ち着かないのだ。
姉妹の信頼にそむいているのではないか、そんな気がして仕方ない。

だが、そんな寄る辺ない想いも長くは続かなかった。何せ彼女はまだ幼くて、考えるよりも大切なことがいくつもあるのだから。
短いあくびがひとつ、そしてまたひとつ。その大きな口を通り抜ける。
ニーナがそばのスツールに腰を下ろして、子守唄らしきものを口ずさみはじめたとき、小さなラプトルは三度目となるあくびを漏らした。


翌朝、目が覚めた時、デルタはひとりではなかった。
寝相の悪いチャーリーに顔を叩かれてイライラしながら目を開けると隣にはエコーがいたし、背中越しにブルーの寝息も感じられた。
またしてもこちらに向かって振り下ろされる行儀の悪い尻尾に、彼女は軽く歯を立てた。末っ子がキュイキュイと抗議の声を上げながら手足をばたつかせる。だがすぐにまた寝返りを打ったきり、チャーリーは再び寝入ってしまったようだった。

すっかり眠気の飛んでしまったデルタは、ちょうど部屋に入ってきたニーナに目を留めた。
両腕に抱えた大量の荷物——ラプトルたちが『やぶって遊ぶと楽しいおもちゃ』と認識している書類の束——をデスクに積み置いた彼女はメールに気を取られるあまり、足元に忍び寄るデルタの存在にはまるで気づかない。
だが長年にわたる肉食動物たちとの暮らしで鍛えられた反射神経までは鈍っていなかったようだ。
驚異的な脚力で胸元に飛びついてきたデルタを、ニーナは即座にキャッチした。

「びっくりした! もう、悪い子ね」

ニーナは声こそ平静を装っているものの、目を見開いてデルタの顔を凝視している。鋭い爪で服と皮膚を切り裂かれる危機は逸したが、背中をつたう冷や汗までは止められなかった。
なにせ今、自分の身を守ってくれるのは薄手のTシャツ一枚きりなのだ。いつものセーフティグローブすら身に付けていない。
ラプトルの鋭い歯を防ぐための革製ロンググローブはいわば命綱で、これを装着せずラプトルと直接接触するのは自殺行為に等しい。
むき出しの素肌を噛まれればいくら相手が子供の恐竜でもただではすまないだろう。ニーナはすっかり気のゆるんでいた自分自身を呪った。
だがデルタは鼻腔をひくひくさせるだけで、その大きな口を開こうとはしない。前脚を使って体をよじ登ってきた時にシャツを貫通した爪が肌にいくらかの引っかき傷を作ったかもしれないが、攻撃の意思からではないのは明らかだった。

「デルタ」

ニーナのおだやかな声がデルタの気を引いた。小首をかしげる恐竜はまるで言葉の続きを待っているかのようにおとなしい。
ニーナはデルタの全身にさっと視線を走らせて、瞳孔が急激に拡大したり後脚の筋肉がこわばったりするなどの攻撃の前兆がないことを確かめると、ちいさな友人の背中に手を添えて、そのままゆっくり床におろそうとした。
その途端、胸と二の腕に痛みが走った。
思わず息を呑み、顔をしかめるが、デルタはそんなことにはお構いなしにますます爪を食い込ませてくる。シャツがビリっと嫌な音を立てたので、ニーナは慌ててデルタを抱きかかえ直した。
すぐ目と鼻の先で、巨大な口が真っ白い牙をむき出しにする。レディらしからぬ大あくびを恥じる様子もないデルタはいかにも気だるいまばたきを繰り返している。
その頭から力が抜けて、信じられないことに自分の方へコテンともたれかかってきたとき、ニーナはようやく我に返った。

「デルタ」

ニーナがささやく。
腕の中でうつらうつらしはじめた恐竜を起こしてもいいものか思い悩んだ末に、吐息のようなか細い声になっている。

「今日はオーウェンの服がなくて。いいの?」

デルタは返事をしなかった。目を開けようともしなかった。
彼女はただニーナの腕に全身をあずけて、姉妹たちと身を寄せ合う夜と同じように、安堵の寝息をたてはじめた。

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