夜露を含んだ草葉で服の裾や脚を濡らして、私は急ぎ足で彼のもとへと向かっていた。
彼——ジェイソン・ボーヒーズに会うのはひどく久しぶりのような気がする。
あれ、それとも数日前に会ったばかりだっけ? 立ち止まることなく考えて、結局、どっちでもいいやと結論付けて更に足を速めた。
だって、黒色の空に広がる色とりどりの星の天蓋、この美しさをジェイソンにも早く教えてあげたくて仕方がなかったから。
森を抜けてしばらく行くと、朽ちかけた木造の家屋に辿り着く。
そばには直射日光と雨風にさらされて劣化した手漕ぎボートがいくつも積み重ねて置かれている。
玄関扉のすぐ外側には地下トンネルへと降りるための外開きの扉があって、ジェイソンはいつもここから出入りしていた。
太いメイン通路と多数の分岐点をもつ細く蛇行した道が入り組んだアリの巣さながらの住居は、ジェイソンが何十年もかけて作り上げたもの。
素晴らしいんだけど一人で入るのはちょっと怖いかなとも思う。だって本当によく出来ていて迷子になりそうなんだもの。
辺りにジェイソンの姿はなく、私は柔らかい草の上に座って待つことにした。
きっとそのうち帰ってくる——その時、背後で草をかき分ける足音を聞いた。
「ジェイソン?」
いや、違った。
私の前に現れたのは犬だった。ピンと立った耳に鼻先の黒い顔は多分ジャーマン・シェパード。首輪はないけどどこかの飼い犬だろうか。
なだらかなカーブをえがく背中やしっかりした肩、筋肉のついたたくましい後ろ足はまさに狩猟犬のそれだ。鋭く冷たい印象の瞳すら、全体と調和して美しく見える。
犬は私をじっと見つめてはいるが、そこに敵意はなかった。中途半端に浮かせていた尻を再び落ち着かせて、ちちちと舌を鳴らして気を惹く。
犬の大きな耳がぴくぴく動く。まっすぐに目を見ないように気をつけながら、「おいで」と誘った。
「いい子いい子。どこの家の子? もしかして野良?」
ジャーマン・シェパードをちゃんと見たのは初めてだったが、私はこの犬種の力強い雰囲気やしっかりと大地を踏みしめて歩く悠然とした立ち振る舞いにいっぺんに魅了されてしまった。
「ふふふ、どこで遊んできたの? なんかいっぱいくっついてるね」
皮毛に絡まっている枯れ葉やトゲのある種子を一つひとつ取り除くあいだも、犬は時おり長い鼻を鳴らすだけで大人しく隣に鎮座していた。
もしかしたらお腹が空いているのかと思ったけど、残念ながら食べ物は持っていない。
なおも私の匂いを嗅いでいる犬に「なにも持ってないの」と両手の平を開いてみせる。彼はふいっと横を向いた。
犬に立ち去る気配はなく、感動的なまでの大人しさでこちらに寄り添ってくれている。
本当に野良犬なんだろうか。むしろそうであってほしいと思えてきた。
「ジェイソン犬好きかなあ……あ、ダメって言われたら私が連れて帰ってあげるから大丈夫! でもきっと仲良くなれると思うよ。ジェイソンはちょっと怖いけどすごく優しい人だから」
それにしてもジェイソンが遅い。
今日は帰ってこないつもりだろうか。まさか何かあったんじゃ……。
強いから大丈夫、必死にそう言い聞かせているのに、一度心に巣食った不安は膨らむばかりだった。
「ジェイソン……」
だんだんと心配になってきた私の頬に濡れた鼻先がくすぐったく触れる。犬は慰めるような、励ますような瞳でこちらを見つめている。動物は鋭い。
「ありがと。寒いし中入ろっか。ああ、お前はどっか帰るお家があるのかな」
ところが犬はくるりと振り返ると、まるで住み慣れた我が家へ戻るかのような迷いのない足取りで洞窟の入り口へと進んだ。
「一緒にいてくれるの?」
精悍な横顔がちらりと振り返る。
うーむ、愛想がいいんだか悪いんだかよくわからない犬だが、なんにせよ心細い夜を一緒に過ごしてくれる友達が見つかったのは嬉しかった。
右往左往するネズミの群れを踏まないようにそろそろと歩くのは大変で、やっとのことで寝室に辿り着いた。
迷子にならずにここまで来られたのは完璧なガイドがついてたおかげ。
「どうもありがとう」
礼と共に頭を撫でてやると、犬は一度だけ尻尾を振った。すぐに照れたみたいに顔を背ける、その仕種がなんだか誰かさんに似てる。
「おいで。一緒に寝ようよ」
ぼろぼろのマットレスに身を横たえて、空いた場所をたたいて犬を呼んだ。
汚れた毛皮からは私がよく知っているにおいがした。埃と泥と雨のにおい。
ジェイソンと同じ自然のにおいをさせた犬のことが私はすっかり好きになっていて、ちょっぴり緊張ぎみのしなやかな背中を何度も撫でた。
「きっと仲良くなれるよ。きっと……」
翌日、いつの間にか眠っていたらしい私は家主に揺り起こされて目を覚ました。
視界の真ん中で薄汚れたホッケーマスクが輪郭を結ぶ。
「ジェイソンおはよう……昨日どこいってたの」
ジェイソンは質問には答えず、私の腕を乱暴に引いて立たせた。
「わっ、なに怒って……勝手に入ったから? ごめんって」
ところが彼は服についた土を払ってくれただけで、私を追い出そうとはしなかった。力の加減を知らないので痛いことは痛いが、怒っている訳ではないらしい。
「あっ! あのね、そういえば昨日新しい友達が……」
ところが、あの大きな犬の姿はどこにもなかった。
「でももう帰っちゃったみたい」
肩を落とす私の頭に大きな手の平が着地した。こちらを見つめ返すジェイソンの瞳は、なぜかいつもより少しだけ優しかった。