1/fゆらぎ

ツルハシを凶器とするガスマスクの殺人鬼、ハリー・ウォーデンは、ペンシルベニア州にあるゴーストタウンでひっそりと暮らしている。
この田舎町はかつては炭鉱業で栄えていた(彼の“仕事場”である町、ハーモニーと同じように)。
だが栄枯盛衰とはよく言ったもので、町は1960年代に起きた突然の大火災によってすべてを失い、ついぞ再起する事は無かったのである。
驚いたことに、地下ではその時の炎が未だくすぶり続けている。火は雨にも嵐にも動じず、45年以上経った現在でも鎮火の兆しを見せない。
すべてが収束する日はどれほど先になるのか……いや、そもそも終息の日は来るのだろうか? それは誰にもわからない。
一部の頑固者を除き、住民たちは政府の退去勧告に従い街を去った。
残った住民はハリーを含めて11人。ただし、おおやけには10人となっているが。

ハリーが身を潜めているのは町の突き当たりに位置する一軒の廃屋の中で、仕事の時期には遠い7月の今日、彼は退屈を持て余していた。
彼はこのゴーストタウンの住民を殺さない。そんなのは自分の美学に反するし、それに正直なところ、バレンタインの前後以外は殺意を奮い起こすのも一苦労なのだ。

玄関の方から床が軋む音がして、ハリーは大の字に横たわった無気力そのものの姿勢から跳ね起きた。
じっと耳を澄ませると、確かに侵入者の靴音が聞こえる。だが警戒心と敵意が沸き上がったのはほんの一瞬で、いまは跡形もなく霧散している。
代わりに自分の心臓が早鐘のように打ちはじめるのを彼は感じていた。
開けっ放しの出入り口から夏の風が吹き込み、床の埃を舞い上げた。そこにおなじみのお小言が続き、女がひょっこり顔を覗かせる。

「窓くらい開けたら? 暑いのに……おはよー。夕方だけどー。またゴロゴロしてたなお前」

これを受け、ハリーの手がホワイトボードを拾い上げたかと思うと驚くべき速度で文字を書き付けていく。

『いやいや、めっちゃ筋トレとかしとったし』
「嘘つけ」
『マジやし見てみこれ』

ハリーは右腕に力こぶを作ってみせた。ニーナから見えるものといえば、黒い作業着に寄った皺だけだったのだが。

「そうだねーすごいねー。私に透視能力があればそのすっばらしい肉体美を拝めるんだけどねーあー残念だなー!」
『ほんま嫌味な女やな』
「その嫌味な女が食べ物持ってきてやりましたよ。あと下の方にTシャツ入ってるから」

自由に町中を歩き回る訳にも行かないハリーの衣食はほとんどニーナ頼みになっている。
そんな関係はすでに半年も続いていて、片道一時間の距離を思うと気が咎めなくもないのだが、かといって「もう来なくていい」と告げる勇気も持てないのだった。
手渡された袋の中に前回頼んでおいたチョコビスケットがしっかり入っているのを確認すると、ハリーは満足そうにうなずいた。

『さんきゅー。今日泊まってくんやろ?』
「いや? もう帰るつもりだけど」
『なんでやねん』
「なんでやねんてなんでやねん。っていうか仮にも風紀委員が女の子に泊まりを要求するとか……ヤダー」
『はぁ!? ちゃうし! そういう意味ちゃうから! 今から帰ったら暗なるから気ぃ使ったっただけやろ、何なんお前』
「字書くの早っ。……いやまあ有り難い申し出だけど魚に餌やらないとだしさ。やっぱ今日は帰るね」

言うが早いが立ち上がってパンツの埃を払い落とすニーナの表情は心なしかぎこちなく、ハリーには彼女が呆れているように見えた。
出て行く間際ニーナは確かに「じゃあまたね」と言ったが“また”は本当に来るのだろうか。
ハリーはその場に寝転がり、だが本当はのたうち回りたいくらいだった。盛大な溜め息はガスマスクのホースを吹き抜けますます絶望的な音を帯びた。
——なんやねんあのアホ女……


外に一歩出て、まずニーナが気づいたのは空の色だった。
来た時はまだ青みが残っていたはずが、今は視界全体がまぶしいほどのオレンジ色に染まりつつある。ハリーの言う通り、家に帰り着く頃には夜になっているだろう。
と、ニーナは突然その場にしゃがみ込んだ。くぐもった声が喉から漏れ、夕陽とは別の理由から赤く染まった頬を両手のひらで覆い隠す。

「……人の気も知らないでなんであーいう……」

うまく動揺を隠しきれていただろうか。変に思われてたらどうしよう。急に様々な感情が沸き上がってきて頭が混乱しそうだった。
恥ずかしいようなくすぐったいような、だけどこんなにも感情を乱されていることが腹立たしくもある。

「何なのあのバカ男……あんなやつ」

嫌いだと言おうとしたがとても声には出来なくて、悔しい溜め息が唇を抜ける。
やがてうんと大きく伸びをすると、彼女は背筋を伸ばして歩き始めた。

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