メビウス

流行の噂話に興じている間は、クラスメイトの女子たちはキャリーをかまわないでいてくれた。
まるで目には見えない二酸化炭素のようにキャリーを無視してくれた。
ただしだからといってそれでキャリーの気が休まるかと言えば話は別で、他愛無いおしゃべりがいつ自分への罵詈雑言に変化しても事前に覚悟を決めておけるように、耳をそばだて、身を縮こまらせていなくてはならなかったのだが。

キャンディマン。

漏れ聞こえてくるその名前はキャリーには馴染みのないものだったが、有名な都市伝説のひとつらしく、なんでも鏡の前で5回その名前を口にするとどこからともなく鉤手の男が現れて、その人を切り裂いてしまうのだという。
そこにどんな理由があるのかしら、とキャリーはぼんやり考えた。右手に曲がった鉤をつけたその男は自分の名前が嫌いだから呼んだ相手を殺してしまうのか。
確かに、血なまぐさいエピソードと共に語り継がれる名前としてはちょっと可愛すぎて締まらない感じはする。
そのとき女子の輪の中からどっと笑い声が上がったので、キャリーは怯えて首をすくめた。


死んだように静まり返る、午後5時の我が家。
母親はどこかへ布教へ行ったきりまだ帰ってきておらず、キャリーは一人、自室の鏡の前にたたずんでいた。
鏡はいつでも少し汚れたままにしてある。自分の姿が、顔が、くっきりと映らないように。大嫌いなものを直視しなくて済むように。
血の気のない唇が鏡の中でとまどいがちに動いている。1回、2回……3回、4回と同じ言葉を繰り返している。

「……キャンディマン」

そして、これで5回目。
何の音も、誰の声も聞こえない。

こうなることはわかりきっていたはずなのに。何故かキャリーはひどく落胆していた。
お前は世界一の愚か者だと、他ならぬ自分自身から突きつけられたような、そんなどうしようもない恥ずかしさで両頬が火照る。
笑い飛ばそうにも喉を通り抜けるのはかすれた空気の音だけ。
結局自分はどこまでも独りぼっちなのだ——噂話にさえも背を向けられる、どうしようもなくちっぽけで惨めな汚点だったということだ。

キャリーは滲んできた涙をカーディガンの袖口でぬぐった。そうしているとまたしても惨めな気持ちが沸き上がってくるのだが、かといって涙が頬を伝うままにしておくのも情けない。
彼女は血色の悪い頬を乱暴にこすりあげると再び顔を上げた。すると、そこにはもう自分の姿は映っていなかった。
あまりの驚きに涙もぴたりと止まってしまい、キャリーは白いブラウスの胸元を掴んだまま惚けた表情を浮かべている。

次の瞬間、彼女はようやく気づいた——いま自分が見ているものはそもそも鏡ではない、と。
それは暗色のロングコートだった。あまりに広い胸板が、キャリーの視界をほとんどふさいでしまっているのだ。
たっぷりと布地をとったコートは長く、あたたかそうなファーの縁取りがくるぶしのあたりで揺れている。そこから突き出た黒い革靴が大きな足によく似合っていた。

「キャンディ、マン」

か細い声でキャリーは呟いた。迎えを見つけた迷子のような、ほっとした声だった。

「来てくれたのね」
「なぜ私を呼んだ?」

鉤の右手をだらりと降ろしたままのキャンディマンが訊ねる。
キャリーから予想外の一言を受けたせいでその端正な顔立ちをゆがめてはいるが、地を這うような低い声は憤っているふうではない。

「わからないわ……ただ、ただ、あなたが何かを変えてくれるか、終わらせてくれるかするかもって期待してたのかもしれない……」
「この私が人助けのために存在していると?」

キャリーは顔を赤らめた。

「そう……そうよね、ごめんなさい。ただ私……、ごめんなさい……」

うつむけた視線の端で男の右腕がゆっくりと持ち上がる。切っ先から根元まで血で赤く染まったそれが自分の方に近づいてきて、このまま切り裂かれるのだと予感した。
きっととても痛いに違いない。だがそれ以上に、自分が死んだらママはどうなるかしらと思うとその方が不安で仕方がなかった。
だってたった一人の娘なのに。ママには私しかいないのに……

冷たい金属の感触が首筋に当たる。
きつく瞼を閉じてその瞬間を待つキャリーの身に、しかし痛みはなかなか訪れなかった。

「……うぅっ?」

恐る恐る目を開けると、曲がった鉤が自分の髪を持ち上げて、後ろへはねのけるところだった。
髪で隠れていたキャリーの頬があらわになり、キャンディマンは彼女の頬を——昨日の夜、ママから聖書でぶたれたときに出来た青あざを見下ろした。
ほんのつかの間、彼の黒い瞳に翳りが生じたことにキャリーは気づいていた。憐憫のような、享受のような、あるいはやさしさにも似た翳りが。

「次から私に的外れな期待はするな」

それだけ言い残すと、ロングコートの男は姿を消した。
瞬きする一瞬の合間に消えてなくなってしまった彼のことを、もちろんキャリーは白昼夢などではないと言い切れる。
だって鏡に映るブロンドの髪には赤いものが残っているし、彼の蜂蜜にも似た甘い香りだってこんなにはっきり覚えているのだから。
最後の言葉も低い声も、ちゃんと耳に残っている。

——あの人、「次から」って言った。

耳の中で鳴りっぱなしの鼓動が恐怖のせいではないことを自覚して、キャリーは頬を染めた。

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