一秒先の未来

『貞子ちゃん元気ないネー』

人気の失せた控室でひとり考え事に耽っていた山村貞子は、赤い瞳のウサギがいきなりテーブルの縁から現れて、しかも高い声で喋り始めたことに驚いて長い睫毛を瞬かせた。
更にその隣から『どうしたんだろうネー』とキツネらしきぬいぐるみまで飛び出したりするものだから、彼女の困惑はますます募るばかりだ。

「……あの、マリさん……?」

恐る恐る名前を呼ぶと、テーブルの向こう側から予想通りの人物がひょっこりと顔を出した。

「じゃーん。びっくり? した?」

子供っぽいせりふには似つかわしくない冷めた表情で問い掛けるマリにどう接するべきか戸惑って、貞子はおどおどと視線を逸らす。

「はい、すごく」

実際、マリの突拍子もない行動にはいつも驚かされる。
小道具係である彼女が劇団内で浮いた存在となっているのもその辺りが原因だろう(それに、文章を短く区切って話す変わった癖と、仮面のごとき無表情も)。
とは言え貞子はそんなマリが嫌いではなく、むしろ自分と同じように煙たがられている彼女にはほんのりとした仲間意識すら感じていた。
変わり者の友人は、まだ狭いテーブルを舞台に無言の人形劇を繰り広げている。
愛らしい微笑みを浮かべたパペットとそれを操る無表情な人間との温度差は甚だコミカルで、知らず知らずのうちに不思議と胸が暖まる。

「それ……マリさんが作ったんですか?」
「うん。切れ端でね。衣装の。暇だったから」

そう、と頷いてから、そんな自分にほとほと嫌気がさしてテーブルの下でぎゅっと拳を握った。
——こんなとき、他の人達だったらもっと気の利いたことを言えるはずなのに。なのにどうして私は、と再び暗い気持ちに飲み込まれそうになる。
それを引き戻してくれたのはマリの、いや、ウサギとキツネの声だった。

『わたしは貞子ちゃん好きだヨー』
『僕も大好きだヨー』

思いがけない言葉の、その意味すらもよく飲み込めないまま弾かれたように顔を上げると、二匹の動物がボタンで出来たつぶらな瞳を輝かせていた。
その真ん中で精彩を欠いた表情を浮かべる女もまた、上目遣いに貞子を見つめている。
——ほんとに、変な人。
薄い唇からこらえきれない息が漏れる。頬が緩むのが自分でもわかって、貞子は慌てて俯いた。
軽くなった心がふわふわ飛び回って体中をくすぐっているんじゃないかと疑いたくなるほど、なにもかもがおかしく感じられて仕方がなかった。
俯き肩を震わせながらも必死で笑いを押し殺そうと苦戦していると、ふいに「帰る」というそっけない一言が聞こえた。
貞子は少なからずの動揺を覚え、バッグを肩にかけて立ち上がるマリを見上げる。
彼女が気分を害したのではないかと不安になったのだ。
けれどもそんな悲観的な想像とは裏腹に風変わりな友人は「満足した」と軽く頷いてみせただけで、表情こそ能面のようだがその声は柔らかい。

「笑ってくれたから。笑うのはいいよ。貞子はかわいいし」

あとこれあげる、最後に貞子の手にウサギとキツネを押し付けると、答える暇さえ与えずすたすたとドアに向かう。
最後に一度だけ振り返り「じゃ、ばいばい」と手を振るマリの瞳が、ほんの僅かだけ優しく細まったような気がした。


その夜、明かりの落ちた静かな六帖間で、貞子は薄い布団に仰向けになり暗闇に覆われた天井をじっと見つめていた。
——笑うのはいいよ。
別れ際のマリの言葉がよみがえり、ふふっと笑う。そう言う自分は微笑みすら見せたことがないくせに。
——貞子はかわいいし。

「……かわいい……」

気恥ずかしさから思わずぶんぶんと頭を振る。それから、ごまかすように自分自身に向かって「おやすみなさい」と呟いた。
明日、思いきって私から話し掛けてみようかな——何を話そうかと胸を躍らせながら、小さなウサギとキツネを抱いた貞子はそっと瞼を伏せた。

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