箱庭

——広い宇宙で、私とあなたの二人ぼっち。

無限に広がる宇宙の暗闇から少し切り取って拝借してきたかのような黒く冷たい腕に抱かれたノヴァの頭脳はまだ本調子ではなく、船内の異常事態を理解できる状態にはなかった。
だから彼女は息を呑むことも取り乱すこともなく、ただ「寒いな」と考えていた。
コールドスリープから覚めてすぐはいつもこうだ。マザーコンピューターはなぜ人間が起きる前に船内を暖めておいてくれないのか。

ようやくささやかな違和感の正体に気がついた。
横一列にずらりと並んだ睡眠カプセルが一つ残らず外側から壊されていること、そしてその中身が空っぽであることに。
どこからも人の声がしない船は不自然に静まり返って、まるでそれ自体が死んでしまったかのようだ。
ノヴァはけだるく瞬きをした。自分は確かにコールドスリープに入ったはずだが、ならどうして“ベッド”の中にいないのだろうと考えながら。
それに、これ。腹に巻き付いているこれはなんだ? ぬめぬめした、細い、黒い、腕……?
その時、実に効果的なタイミングで頭上から不気味な鳴き声が降ってきて、ノヴァの鼓膜を叩いた。
ぎくしゃくと顔を上げるノヴァの瞳に映るのは紛れも無い“殺人犯”の姿——


時は少し遡る。
地球から遠く離れた開拓地へと物資を運ぶ任務を言い渡されたノヴァと数名の乗組員は、行きの旅路を半分ほど進んだ地点で船の定期点検と燃料補給のために無人宇宙ステーションへと立ち寄った。
予定通りの航路、予定通りのスケジュール。
コールドスリープからたたき起こされたばかりの船員達の頭はすこぶる緩慢で——なにせこの単純作業が済んだらまた狭いカプセルに戻って数ヶ月間ひたすら眠って過ごすのだ。言わばただの息継ぎのために、頭脳をフル回転させる必要がどこにあろうか——彼等は手慣れた作業こそそつなく終えたものの、小さな生き物が船内に紛れ込んだことにまでは気がつかない。
この不注意の代償はあまりに大きかった。宇宙ステーションから貨物船にまんまと忍び込んだのは、あろうことか一匹のフェイスハガーだったのだから。
再びめいめいの睡眠カプセルに潜り込んだ船員達は、しかし二度と顔をあわせることはなかった。

それからはまさにあっという間の出来事。
最初のいけにえを求めるフェイスハガーは一番手近にあった寝台に飛びつくと、強酸の体液でたちまちその丈夫な覆いを溶かしてしまった。
寄生された不運な女が己の体内に巣くう異物の存在に気づいた時には全てが手遅れで、激痛にのたうつ悲鳴が他人に届くことはない。
こうして具現化した悪夢は誰にも邪魔だてされることなく成長を遂げた。しなやかな二メートルの長身、鞭のような尻尾、金属すら噛み砕くクロム色の歯を備えた、恐るべき完全生物に。

強大な腕力といくらかの知性を備えたゼノモーフは、驚くべき手際のよさで一つまた一つと細長い繭を破壊しては人間をけだるい夢の中から地獄へと引きずり出し始めた。
彼女には自分の為すべきことがはっきりとわかっていたので、作業は決して焦らず、確実に勧められた。
獲物を巣に運んで、“エッグ”に変えて、それが全て済んだら自分は次の仕事の機会を待つ。ちょうど獲物達がそうしていたように、長く深い眠りにつくのだ。
ところが熱心なゼノモーフが最後の一つとなった繭を覗き込んだ時、彼女にとって全く予想外の事態が起こった。

——彼女は恋をした。

一瞬で、言葉もなく、散漫な感情ではあったけれど、でも確かに恋をしたのだ。
コールドスリープには必要不可欠な毛布がわりの透明ジェルに全身を浸したその女は、目と鼻の先の惨劇に気づく様子もなく穏やかな寝息を立てている。
その表情に、怪物の心は——そう呼べるものが、ゼノモーフにもあるのなら——ひどく揺さぶられた。
自分のそれとは全く異なるピンク色の肌に吸い寄せられ、彼女は恐る恐る手を伸ばす。二人を隔てる睡眠カプセルの表面は自身の頭部と同じように硬質で、なめらかで、ひんやりと冷たい。
怪物は長い尻尾をぶんぶん振りながら「早く起きてくれないかな」と思った。
それから「本当にわたしと全然違う!」とも。
やがて待つことにも飽きてしまうと、彼女は分厚い蓋をいともたやすく打ち壊し、中の人間に腕を伸ばしたのだった。


多くの同僚達と同じく、これまでの人生のほとんどを宇宙で過ごしてきたノヴァにとって、異星人とは地球上の犬や猫と同じで至極当たり前に存在するものである。
とは言えこれまで目にしてきた単純で原始的な生命体に比べれば、いま彼女の目の前にいる生き物の高等さは驚愕に値するはずなのだ。
が、残念ながら普段から寝起きの悪いノヴァの脳では「なにこの変な生き物」と考えるので精一杯だった。
ノヴァは自分をがっちり捕まえて——というよりは抱きしめて離さない異星人の顔を、あらためて観察した。
頭は前後に細長く、頭頂部は半透明のフードに覆われている。中に透けて見えるのは人間に酷似した頭蓋骨だ。それとわかるような眼球や鼻や耳は見当たらず、やたらと大きな口だけが唾液を滴らせている。
クロム色の歯は獣のごとく鋭く、その隙間から漏れる「しゅーっ」という呼吸はともすれば蛇の威嚇音にも聞こえるが、それでいて敵意らしきものは感じられない。

この見慣れないフォルムの生命体に対するノヴァの第一声は、「言葉通じるかな……」だった。
問いかけとも独り言ともつかぬ呟きに、ゼノモーフが喉を鳴らして応じる。それからちょっと首を傾げてみせたが、その拍子に唾液が滴り落ちてノヴァの肌を滑り落ちた。

「冷た……」

その時になって、ノヴァは二つの不快感を思い出した。
一つ目は自分がどうしようもなくずぶ濡れであること——いまとなっては体に纏わり付く粘液がコールドスリープ用のそれなのか、異星人の体液なのかもわからない——で、二つ目は船内の寒さである。
「今はそれどころじゃないんじゃない?」と難色を示すもう一人の自分には大いに賛成できたが、しかしノヴァの口をついて出た言葉はあまりにも場違いなものであった。

「暖房入れたいんだけど、いい?」


狭い船室に佇むノヴァは、ぼんやりと部屋の壁を見上げていた。
つい数日前まで空っぽだったはずの小部屋はいまやグロテスクに濡れ光る“巣”に変貌を遂げた。
妙に生物的で不規則な凹凸に覆われた壁はまるでそれ自体が息づいているかのようで、巨大な生物の腹の中にでもいる気分にさせられる。
こんなものをあの異星人は一人で作り上げたのかと感心する彼女の脳には、すでに帰郷という選択肢は無い。
技術こそ高く買われていたものの、誰に言わせても『人間嫌い』の『変わり者』で『協調性に欠ける』ノヴァはいともあっさり同胞と故郷を切り捨てて、新たな友人と宇宙を彷徨う道を選んだのだ。
幸い人工食料を作り出すシステムは乗員が殺されようがいまいが機械特有の冷淡さで正常に機能しているし、そもそもこの船自体が貨物船であるからして、生活にはそれほど困らない。

嘆息と共にもう一度部屋を見回した時、ノヴァは背後から腕を引かれてよろめいた。
二人きりの船内だ、相手は考えるまでもない。

「チャップちゃん」

おはようと言いかけたノヴァの言葉を遮って、黒い異星人は恋人を軽々抱き上げると自らの巣から離れた。人間の気配に反応した“エッグ”が開く前に、大急ぎで。
ノヴァを抱えた彼女が向かったのは船内にあるお気に入りの場所の一つだった。照明の光が乏しい、ほんのささやかな広さの物置部屋。
中に入ると、ビッグチャップはほっとしたように壁際に腰を下ろした。もう隠れる必要は無いとわかっていても、やはり暗くて狭い場所は落ち着く。

「入っちゃだめだった?」

昆虫を思わせる細い腕の中でノヴァが尋ねる。身じろぎをしているのは逃げ出そうというわけではなく、会話をしやすい体勢を探すためだ。
会話と言ってもビッグチャップは言語を操れないから、結局、ノヴァは自分で自分の問いに答えを出した。

「うん、じゃあもう入らない」

その言葉がどこまで伝わっているのかは怪しいが、だいたいのところ声音や、仕種や、表情でなんとかなるものだ。現に異星人は安心した様子で優しくノヴァの体を揺すっている。
こういった愛情表現は、誰に教わるでもなく彼女の中に染み付いているものだった。
獲物を狩ることや、巣を作ることと同じように。

「ビッグチャップちゃん」

あの日思わぬ目覚めを迎えてからもう何度呼んだかも定かではない名前を噛み締めるように口にして、ノヴァは細長い頭を愛おしげに撫でた。
“ビッグチャップ”というのはもちろん、この特徴的な造形の頭部から思い付いた呼称である。ちょっと安直過ぎたかなと反省がよぎることもあるが、いまさら変更する気にもなれない。

「美人さんだね」

これまた何度目になるかもわからぬ褒め言葉を口にして、黒い体をそっと押し倒す。
「痛い?」と訊いたのは背中から伸びるパイプ状器官が床に引っ掛かるのを心配してのことだったが、当のビッグチャップは気にする様子もなく、軽く首を傾げたままノヴァを見つめ返している。
「なあに」と言うようにノヴァの頬をつつく指は枯れ枝のように細い。
しばらくの間、まるい頬の感触を楽しんでいたビッグチャップの指がふいに止まった。
それがあまり急だったので、ノヴァはどうしたのだろうと首を傾げ、それから——「ひゃっ!」と肩を跳ね上げた。
ビッグチャップの長い尻尾が脚の間に滑り込み、そうっと内腿を撫でさすったのだ。ノヴァはその瞳にいくらかの驚きを宿して、だが次の瞬間には火照った頬に許容の笑みを浮かべた。
そして、お返しとばかりにビッグチャップの体に手を伸ばす。昆虫、機械、爬虫類……さまざまな生類と無機物を混ぜ合わせたような身体の隅々から、つるりとした腰を選んで掌を押し当てた。
皮膚の柔軟さこそ欠けるものの、そのしなやかなラインは奇妙なほど人間の女性に酷似している。

「チャップちゃん」

絡み合うのは五本の指と六本の指。人間同士よりも上手に、自然にぴたりと重なる掌に、どちらからともなく力を込めた。

「大好き」

もはやどこを目指しているとも知れない船は、限りない暗闇の中を静かに進んでいた。たった二人の乗客を乗せて。

——狭い部屋で、きみとわたしの二人きり。

    拍手ありがとうございます!とても嬉しいです!

    小説のリクエストは100%お応えできるとは限りませんが、思いついた順に書かせていただいています。

    選択式ひとこと

    お名前

    メッセージ



    エイリアンエイリアンシリーズビッグチャップ
    うりをフォローする
    タイトルとURLをコピーしました