Upside-down Kiss

その日は朝からあいにくの空模様で、まだ夜にならない内から部屋の中は薄暗かった。
……いや、この表現は適切ではない。
“あいにくの空模様”なのは上空ではなくひとりの人間の胸中であり、冷たい雨が降っているのは彼女の感情を反映しているからに過ぎないのだから。
夢の世界では雨降りでも、いまごろ現実世界では太陽が誇らしげに輝いているかもしれない。

それは十分にありえる、とふわふわしたラグに膝を立てて座っているフレデリカ・クルーガーは思った。
それからこうも思った——今日のニーナは明らかに、何もかもがおかしい。こんな真っ昼間からあたしの所へ来て、かと思えばずっとだんまりとか、一体なんなの。
フレデリカが目だけ動かして窓を見やると、半分開いたカーテンの隙間から鈍色の空が顔を覗かせていた。
空には同じく灰色をした厚い雲が停滞しており、その隙間から絶え間ない銀糸が滴っている。
まさか泣いているのだろうか。
振り返って確かめようとしたものの、背後から伸びる腕の拘束がきつすぎて叶わなかった。

ガラス一枚隔てた向こうで冬の風がうなり、モノクロの木をしならせる。
ふいにフレディの頭から帽子が浮いた。
ニーナの手によって取り上げられた焦げ茶色のフェドーラ帽は夢魔の膝に乗せられて、ゆらゆらと揺れている。フレディが右手に着けたかぎ爪でちょんとはじくと、それは白いラグの上に音も無く落下した。
フレディの頭に頬が押し当てられる。細い息が金色の髪と尖った耳をくすぐった。

「ちょっとお嬢さん、今日はずいぶん機嫌がいいじゃない、ん?」

返事はない。代わりにいっそう強く抱きしめられて、同時に肩を掴まれた。ニーナの指が厚いセーターに触れ、骨の形や連なりを探るように動く。

「なぁに? ファックしたいの?」
「……ちがう」
「あら、あんた喋れたの。びっくり」
「……」

またしても沈黙。
焼け爛れた顔をしかめて、フレデリカ・クルーガーはやれやれと独りごちた。

そもそもフレディは自分にも他人にも興味がない。
自分がいくら傷ついて血まみれになろうが、“遊び相手”が泣きわめいて許しを乞おうが、彼女にとっては取るに足らない出来事なのだ。
そんな彼女が、今はたったひとりの人間に振り回されている。それは好奇心の代償だった。ニーナに対する、紛れもない好奇心。
もちろん幼い子供たちあるいはティーンエイジャーと遊ぶことや、彼らの死に際を観察するのは大好きだが、フレディが本当に興味をいだいているのはニーナ一人に対してだけだ。

夢魔は心の内で付け足した——“今のところは”。

今のところはニーナが一番気になっていて、一番面白くて、唯一切り捨てる事のできない存在だった。
そしてその“今のところ”は、もう一年以上も続いている。
例えば、現実の世界で過ごしているあいだ、ニーナは一体何をしているのだろうかとふと考えてしまう(そんなとき、たったいま鋭い鈎爪によってぼろきれみたいに引き裂かれた男、あるいは女はフレディの意識から一瞬で消える)。
笑っているのか、泣いているのか、それとも悩んでいるのか。
一秒でも自分を思い出してくれるだろうか? 夜を待ち遠しく感じているだろうか?
そして、いまこの瞬間は何を考えているのだろう。

窓の外が陰って薄暗くなる。風が強まり、若い楡の木が裸の枝を震わせる。
今度の変化はフレディの感情に基づいたものだった。いま彼女の心には焦燥感が巣食い、それは磁石に操られる砂鉄のようにざりざりとうごめき、のたうちながら勢力を伸ばしつつある。

——焦ってる。怖がってる。このあたしが!

フレディは自分の心の声を断ち切るように首を振った。それから立てていた膝を伸ばし、大きなあくびをひとつ。
頭も体も思い切り仰け反らせて伸びをすると、節がぽきぽきと音を立てた。
浅緑色の瞳に上下逆のニーナが映る。彼女はここに来てから初めて微笑みらしきものを見せていた。

「……フレデリカ、猫みたい」

そう言って高い鼻をちょんとつつく。

「ニャー」

夢魔が猫の鳴き声を真似てみせると、今度こそニーナが笑った。
逆さまの口づけを交わす二人の側で、窓はほんの少し輝きを取り戻していた。

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