曖昧な境界線

この地下室は嫌い。大嫌い。
いっそ真っ暗闇ならいいのに、中途半端に存在する明かりのせいで嫌でも異様な光景が目に焼き付くから。
飛び散った血でまだら模様になったコンクリートの壁や、嫌なにおいのする水が張った床や、それに巨大なフックから吊り下げられた人間なんて見たくもないのに。

地下室のドアが耳障りな音を立てて軋り、この部屋の主の帰還を知らせた。
澱んだ水を跳ね上げ大股に入ってきた彼女——トマシーナ・ヒューイットは何よりも先に部屋の隅にうずくまる私を確認すると、表情に乏しい顔にわずかにほっとしたような色を浮かべた。
認めたくはないのだが、この二週間……いや、もう三週間になるだろうか、とにかくこうして過ごすようになってからしばらくが経ち、私は彼女の表情を読み取ることが上手くなっていた。

最初の数日こそやたら鋭い目つきに震えたものだったが、その獣のような深い茶色の瞳に実は根強い不安が宿っていることに気づくまでに時間はかからなかった。
ことによると、私以上に彼女のほうが怯えているのかもしれない。
私の前に跪いたトマシーナは、真綿でも扱うような注意深い手つきで私の頭を抱きしめた。
汚れてごわついたエプロン越しにも豊かな胸の感触が伝わってくる。トマシーナは大柄だが女性らしい柔らかな身体の持ち主で、こんな状況でなければ彼女の抱擁は心地好い安らぎをもたらすだろうと思った。
ささやかな儀式に満足した彼女は今度は私の髪を整えることを思い付いたらしい。ささくれ立った指先がおずおずと伸びてきて、乱れた髪を撫で付け、それからちょっとためらったあとで頬を拭う。

「やめて。泣いてない」

妙に優しい手つきが気にいらなくて顔を背けると、視界の端で殺人鬼がわずかに肩を落とすのが見えた。
寂しい手がなにを求めているのかはすでに知っている。彼女は自分が私に注いでいるのと同じだけの愛情を欲しているのだ。
やろうと思えばたやすいことだった。今だってちょっと手を伸ばせば黒革のマスクに覆われた顔にも、無造作に伸びた髪にも、縦横に深い傷が走る腕にも、日に焼けた首筋にだって触ることができる。
それで彼女は満足するはずだ。偽りの理解でいい。ひと時だけの愛情でいい。きっと上手く騙せる。騙してあげられる。
だけど、だけど——
どうしてあなたにだけは嘘をつきたくないと思ってしまうんだろうね。

「こんな事されて」

私が腕を持ち上げるのにあわせて、手首の枷と壁のパイプを繋ぐ鎖が重たい音を立てる。

「あなたを好きになれると思う?」

トマシーナはこれまで幾度となく繰り返してきたように、苛立つ私の声などまるで聞こえないふりをして視線を逸らした。臆病でわがままな子供みたい。

「……かわいそうな子」

この地下室は嫌い。大嫌い。
だけどそこに住むあなたは、あなただけは——

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