スピカの残骸

一瞬だけ鼻腔をくすぐったコーヒー豆の香ばしさは、すぐに蜂蜜の甘い香りに上書きされた。
実験データを書き連ねたノートのページを1枚めくってから、ペトラ・ウェストレイクは顔をあげた。
予想した通りの姿——コーヒーと同じくらい優美な肌色をした背の高い女がそこに立っているのを認めると、やあ、と軽く挨拶をする。それから包帯の手でコーヒーカップを引き寄せた。

「どうしてだろうね。君にわかってしまうのは」
「私が何をわかると?」
「いや、そろそろ糖分が足りなくなってくる頃だったから。君はいつもいいタイミングで来てくれるだろう?」
「ええそうかもね」

相手の女は切れ長の目を細めて微笑んだ。
アイルランド訛りがあるペトラとは正反対のはっきりとした発音は、低めだが柔らかなアルトの声とあいまって、どこかスパイシーな響きを伴っている。

「理系は単純でわかりやすいから」
「それは心外だ」

ペトラがわざと不機嫌な声を出してみせると、血の気の失せた顔が悪意があるのかないのか判然としない笑みを浮かべて見つめ返してくる。
この暑いのにファー付きのロングコートなんか着込んで、なのに汗ひとつ浮かべていない彼女の名前はダニエラ・ロバターユ。
19世紀に非業の死を遂げた画家は今や大人から子供へと語り継がれる恐怖の都市伝説となり、その存在で人々を震え上がらせる傍ら、なぜかペトラとの交友を深めている。

「ねえダニエラ。君のその素敵なコートはよく似合ってるんだけどね、ときどき見てるだけで息が詰まりそうになる」
「その暑苦しい包帯をほどいてから言いなさいな」

ダニエラの右手がテーブルの上のノートをそっと押さえる。五本の指は見当たらず、代わりに血と錆が染み付いた金属の鉤が備わっていた。
細かい几帳面な数字の羅列に混じって感情に任せた殴り書きも少なくない紙面をダニエラはしばらく黙って見下ろしていたが、次に再び口を開いた時、そこには奇妙な冷ややかさがあった。

「ペトラ。私はある面ではお前を買っていたのに」
「うん?」

戸惑う化学者は湖のように青く澄んだ瞳をまたたかせた。
彼女は一体何に怒っている? この蔑んだ視線はどういう意味なのだろう?
ダニエラを間近にするといつもそうなるように、彼女の美しさと激しさに気後れするあまり、無意識に顔の包帯に手をやっていた。

「嘘が嫌いなことと約束を決して違えないこと。そういうところを」
「約束?」
「進捗があれば一番に知らせると言い出したのはお前の方でしょうに」

ダニエラが目をすがめると、長い長い睫毛が頬に不穏な影を落とした。どこかから蜂の羽音が聞こえたような気がする。

「あぁ! 違うんだ、すまなかったね。君がそこまで楽しみにしてくれてたとは……思わなくて」
「楽しみ? 別に成功しようとそうでなかろうと私にはどうだって」
「それじゃあ……」

着地点の見えない会話にますます戸惑うペトラが言葉を詰まらせる。やがて降参したように首を振った。

「いいかな、悪く取らないで。君の話は……繊細すぎて、私にはどうも二転三転してるように感じることがあるんだが」

進捗を報告しろと言ったりそのくせ結果には興味ないと突き放してみたり、まるで意味がわからなかった。
そもそもダニエラが人工皮膚の開発に関心を示した試しなんてあっただろうか?
一度か二度、話を振ってみたときも反応なんて簡素極まるものだったし、一生懸命説明してやろうとしても淡々とした笑みを浮かべるばかりでまるで張り合いがなく、がっかりさせられたものだ。
自分たちの歯車が何から何まで噛み合わないのはすでにわかりきっていることだし、だからダニエラの前で仕事の話を持ち出さないのはペトラなりの気遣いでもあった。
それなのに。

「ペトラ」

テーブルの向こう側からこちら側へと回り込んできたダニエラが至近距離からぞっとするような声を出す。
まるで蜂の羽音のように低く、そして蜜のように甘い声を。

「だったら単純なお前にもわかるように言ってあげなくてはね」

鈍い輝きを放つ鉤がペトラの顔に慎み深く触れる。包帯を押し下げられ、焼けただれた頬にじかに触れた金属は心臓がすくみあがるほど冷たかった。

「お前のどんな表情だって、私が一番はじめに知りたいのよ」

揺らぎもせず見つめてくる彼女はやはり、美しかった。

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