Influence

研究室の入り口を、黒い影が遮った。
突然の出来事だったが、ペトラ・ウェストレイクは少しも驚かなかった。この研究室を訪ねてくる心当たりはひとりしかない。
デスクの上に乱雑に広がった書籍やノートの山の中から目当ての一冊を探しているところだった彼女が顔を上げると、やはり思った通りの相手がそこにいた。
夕焼けの茜色によく映える、凛とした立ち姿。190cm近い長身は出入り口をほとんど塞いでしまっている。
夏も近いというのにファー付きのロングコートを着込んで、それでも汗ひとつ浮かべていない彼女はあまりに優美で、まるで幽霊のようだった。
事実、それに近い。
世間を震わせる恐怖の都市伝説たるダニエラ・ロバターユがゆるりと右手を持ち上げる。
骨張った手首の先に手のひらは無く、代わりに取り付けられた大きな鉄の鉤で、羽音を立てて飛び回る1匹のミツバチをあやすように呼び寄せた。

「やあ、ダニエラ。来たんだね」
「久しぶりね」

ペトラは思わず笑ってしまい、だがすぐにしまったと思い直した。
ダニエラの切れ長の目がわずかに細くなったことに気付いたからだ。だけど、二日前にも顔を合わせたばかりだというのに「久しぶり」だなんて。
それでも不用意に相手の機嫌を損ねたくないペトラは慌てて首を振ると、おもねるような視線をダニエラに向けながら言い直した。

「ごめんね、寂しかったよ」

ダニエラのいかにもプライドの高そうな細い顎がわずかに上を向く。並外れた長身の利点を存分に生かして、ペトラの包帯に覆われた顔をじっくりと見下ろしたあと、彼女はふいに背を向けた。
ペトラが胸を撫で下ろしたのは、視線の枷から逃れられたからではない。茶色いコートに覆われた背中に、満足感を見てとったからだった。
やや加虐的な満足感ではあっても、不機嫌を撒き散らされるよりはマシだ。
ダニエラという女はまるで罪悪を糧に咲き誇る花だった。花は美しい刺でペトラを魅了して血を流させ、その血でまた盛りを得るのだ。

「きみはどうしてた? 今日はいい日だった?」

鉤爪の女はこの修辞的な質問には答えず、ゆっくりとした足取りで部屋を半周したあと、ちょうどペトラの真後ろの壁にもたれかかった。

「ダニエラ?」

ペトラがキャスター付きの椅子を転がして振り向こうとするのを、しなやかな両手が押しとどめる。
ダニエラは何も話さない。何かを企んでいそうだが、それが何かわからないことがペトラの不安を煽った。
デスクと椅子の間に閉じ込められたまま、できるだけ首をひねって後ろを見ようとする。その首筋を急に鉤爪で撫でられて、ぎくりとした。
金属の冷たさが、何重にも巻きつけた包帯と素肌の境目を撫でさすってくる。

「何か心配事でも? それとも怒ってる? ねえ、教えてくれてもいいだろう?」

頑なに口をつぐんだままのダニエラの手が首を、肩を、二の腕を順に滑り降りてくる。
ペトラの予感——あるいは期待に反して、ダニエラは胸や腰に触ることはなく、そのまま手首の方へ向かってきた。
デスクの上に所在なく置かれたペトラの両手の甲にダニエラの手がそれぞれ重なる。左手の上にはほっそりとした褐色の指が、右手の上には鉤爪が。
背中に広がる威圧感を通じてダニエラという存在が全身に染み渡っていき、ペトラは不安と好奇心と興奮がない混ぜになって押し寄せるのを感じた。
鼓動はスタッカートのリズムを刻んでいる。いつしか彼女は呼吸も忘れてダニエラの手の甲に見入っていた。
包帯に巻かれた自分の手よりも一回りは小さいだろうか――背丈はダニエラの方が高いのに、こんなに華奢な骨をしているなんて。

「さっきの問いをもう一度繰り返して」
「え? なにを……?」
「私がこの二日間をどう過ごしていたか」

ペトラはほんの一瞬だけ戸惑った。
凍てついた湖のような薄青の瞳に睫毛の影を落として、重なり合う手と手に助けを求めるかのようにじっと視線を注ぎながら、それでも化学者の女は従順さを示す。

「きみは……どうしてた?」
「今この瞬間のことを、ずっと考えてた」

ミツバチの羽ばたきのように低い声が、ペトラの心臓を鷲掴みにした。

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