気がつけば嵐

風の温度に季節の移り変わりを感じるある夜のこと、ニーナは一人、コンクリート敷きの帰路を辿っていた。
時刻は深夜近いが急ぐ様子はなく、ごく自然に、のんびりと歩いている。
鼻歌をうたっているのは、機嫌がいいからだ。ほろ酔い気分というのもあるが、親しい友人の自宅で二日間のバカンスを楽しんだ帰りというのが大きい。
先の二日間は楽しかった。どうでもいいようなことを笑いながら語り合って、雑誌で見かけて以来気になっていたカフェを満喫して、何時間もショッピングを楽しんだ。そこでの出費はちょっぴり痛かったけれど。
一人暮らしをありがたいと思うのはやはりこんな時だ。自由と気楽。家が見えてきて、ニーナはバッグから鍵を取り出した。
それに——と、ニーナは考える。門限を気にする必要もなければ、無断外泊をとやかく言われる気遣いもないんだから、ありがたいことだ。

……その、はずだったのだが。
はっと気がついたときには、ニーナはまるで子猫のように、大きな手に首根っこを掴まえられていた——ただし、子猫を扱うにしては少々乱暴な強さで。
手は首を一周しそうなくらい大きく、長い鉤爪の先が喉元の皮膚に食い込んでいる。とても人間のものとは思えないが、事実、その手の持ち主は人間ではなかった。

「たっ、ただいまっ!?」

裏返った声を恥ずかしがる余裕もなく、首を掴む手にぎりぎりと力が込められていくのを感じて冷や汗が流れる。
気性の荒いこの“恋人”には正当な理由あって責められる事もあれば理不尽に叱られる事もあるが、今回は間違いなく後者だなとニーナは思った。
留守中、何か彼女の不機嫌をかき立てる出来事があって、不運な自分は八つ当たりを受けているのだと。
こんなときは適当に受け流すか、さっさと謝罪して済ませてしまうのが常である。喧嘩は好きじゃないし、何の得にもならないから。
だが今回は違っていた。酔いの力とは恐ろしいもので、ニーナは初めて反旗を翻す事を決めたのだ。

「エリザ」

背後に向かって呼びかけると、硬い声に怯んだか首を掴む手が緩んでほどける。
振り返ると黒い斑点模様の浮いた灰色の爬虫類じみた肌と、メッシュ状の服、それと金属の装甲が目に入る。
それよりずっと高い位置に金色のフェイスマスクがあって、無言でこちらを見下ろす視線が痛かった。ニーナは特別背が低いという訳ではないのだが、なにせこの身長差だ、話すためにはほぼ真上を仰がなければならず、酔っぱらいには少々つらい。
二、三度ぷるぷると頭を振って、ニーナは腹を決めた。

「とりあえずお出迎えありがとう。あと、八つ当たりはやめてほしいなって」

エリザが憤然としたのが空気の変化から感じられた。ゴロゴロと響く顫動音にも明らかに不満の色が滲んでいる。
これではまるで、こちらの方が理不尽な仕打ちをしたようではないか。ニーナもさすがにこれにはむっとした。

「なんなの? 私が悪いの? 何が悪いの? 言わなきゃ分かんないんだってば」

エリザが言語によるコミュニケートを用いることは滅多にない。出会った頃から今に至るまで、ずっとそうだった。
喋れない訳ではないし、マスクに備え付けられている翻訳機能を通してこちらの言っていることは理解しているはずだが、単純に面倒なのだろう。
だからこの瞬間、エリザが素直に地球の言語を喋り始めたことにニーナは少なからず驚いた。

「何処ヘ、行ッテイタ?」
「どこって……友達のとこ、だけど……」

そういえば伝言もなにもなしで出かけていたことをニーナは思い出した。もっともそれは、エリザが狩りに出ていて不在だったからなのだが。

「それで怒ってるってこと?」

エリザは答えない。まだ何か聞きたいことがあるようで、じっとこちらを見据えたまま、しかし肝心の疑問を口に出す決心がつかずにまごついているように見える。
その視線は例えるならば浮気を詰問しているような……

「ん?」

一気に酔いが醒めるような気持ちがして、ニーナははたとエリザのフェイスマスクを見上げた。もしかしたら、そう言うこと?
無言で見つめ返してやると、華奢な肩がわずかばかりこわばったような気がして、きっとそれが答えなのだろう。

自分だって一言もなく何週間も留守にするくせに、なんて自分勝手なんだろうと呆れたのはほんの一瞬。
すぐにそれ以上にくすぐったい気持ちがわき上がってきて、気がつけばニーナはくすくすと笑っていた。案の定更に不機嫌になったエリザが低く唸るけれど、頬はひとりでに緩むばかり。

「それ……心配してくれたってこと?」

エリザはばつが悪そうに黙り込んでしまった。そんな恋人に向かって、ニーナは両腕をうんと差し伸ばしてみせる。

「して。……ぎゅってして?」

そしたら許してあげる、とは口にしなかった。そんなことをしたら、この気位の高い獣は意地を張ってたちまち背を向けてしまうだろうから。
そのかわり、なだめるような笑顔を向けた。眠たいって思ってたけど寝るのはもう少しあとまでおあずけ。今は思いっきり甘えたい、そんな気分だった。

「お願い。してほしいの」

壁に背中が押し付けられる。肩を掴むエリザの手のひらが、つかの間迷うように力を抜いた。
早くとせがむようにニーナは冷たい装甲の背中を抱いて引き寄せ、エリザもやっと心を決めて、その手をするりとニーナの背に回す。

……が、次の瞬間。
思いがけず足元から重力が断ち切られて、驚いたニーナの口から「ひゃああああ」と間抜けな悲鳴が漏れた。
悪戯を成功して喜ぶ子供よろしく楽しげに、エリザは喉を鳴らす。だけどニーナにしてみればたまったものではない。
不安定な肩の上で、荷物のように担ぎ上げられた方の身にもなってほしいと涙目である。
確かに、確かに“抱きしめられて”いることに変わりはないかもしれないが。

「でもそういうことと違うー! なんで毎回この持ち方ー!?」

まったく、どうしてこうなるんだろう! いつもいつも、結局はいいように振り回される。勝てた試しなんて一度も無いんだから!
つややかに揺れているドレッドヘアを、ニーナはぎゅっと引っ張った。
素直じゃないにも程がある、愛おしくも憎らしい恋人へのせめてもの反撃。そしてそんな彼女のことが好きで好きでたまらない自分が悔しかったから……という紛れも無い八つ当たりとして。

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