絵空事

世界を一変させたあの事件とエリジウム解放から一年が経つ。
当初は混乱に混乱を極めた世論も大体のところ落ち着きを取り戻しつつあり、人々は夢にまで見た人工楽園での生活を謳歌している。
もちろんエリジウムを拒絶し地球で暮らすことを選んだ者も少なからずいたが、私には彼らの選択も自然なものとして理解できた。
ごみ溜めだってなんだって、あの星が私たちの故郷であることに変わりはないのだから。

奥の子供部屋のドアが静かに開く。中から絵本を小脇にかかえたフレイが出てきて、パジャマ姿の私に気づくと穏やかに吐息した。

「今日はすんなり寝てくれた」
「おつかれさまです」
「昨日は何時間もかかったからどうなるかと思ったけど……」
「私が昼間あれだけ遊んであげたおかげでしょ? 子供の体力ってすごいね。おかげでいい運動になった」

長く患っていた白血病がエリジウムの医療技術によって完治して以来、どんどんアクティブになってきたフレイの娘のことを考えた。
最近はやっと人並みにわがままが言えるようになり、母親以外に甘えることも覚えたかわいいマチルダのことを。
フレイがカウチのとなりに滑り込んできて、クッションが“ぽすん”と軽い音を立てた。昔の可哀想なくらいやつれた様子とは比べ物にならないが、フレイは相変わらず華奢な体つきをしている。
フレイが持っている角がくたびれた古い絵本は私が全く聞いたこともないタイトルだった。

「いいなぁ、私にも読んでほしい」
「本気で?」
「もう寝たいのにワインが全然効かなくて」

返事の代わりに、からかい混じりの笑みがこちらを覗き込む。
が、私にはわかっていた。優しいフレイは最後にはいつだって折れてくれるってこと。私がフレイの肩に頭をあずけるのを合図に、観念したように本の表紙が開かれた。
ハスキーな声は心地よかったけど、完璧とは言えない。隠しきれない含み笑いでところどころ声が震えたから。

「もう、真面目に。真面目に読んでってば」
「無理よ。あなたもそんな真剣な顔するのやめない? だから余計おかしくなるのに」

それこそ無理だ。だって親にも読み聞かせなんかしてもらった記憶がないのに、こんな時どういう顔をしてたらいいの?
それでもフレイの穏やかな語りは次第に私の気持ちを解きほぐしてくれ、首と肩の力が抜けていくのが自分でわかった。

「……こういうの、してもらったことがなくて」
「どういうの?」
「本読んでもらうのとか、寝れないときにそばにいてもらったりとか。そういうの」

フレイのびっくり顔と至近処理で視線が絡む。母性の塊みたいな彼女には、そんな家庭があることすら想像が難しいみたい。
だけどその表情もすぐにいつもの思いやり深さを取り戻した。

「私たちはときどき忘れそうになるのよね。自分が愛されてたってことを」

肩にフレイの手が回されると、その温もりに首の後ろがしびれた。
私の肩を抱き寄せたまま、フレイは本のページをめくり、2匹のうさぎの挿絵と文字とを指でそっとなぞった。
私はそれを黙って読んだ。

——「どんなに、きみがすきだかあててごらん」
——「そんなこと、わからないよ」と、デカウサギ。
——「こんなにさ」チビウサギは、うでを思い切り伸ばした。

ふいによみがえったのは、長いあいだ記憶から欠落していた、明るかった頃の母の笑顔。
疲れていない、泣いても怒っても嘆いてもいない彼女を思い出すのは久しぶりのことだった。

「本当は忘れたくないのにね。愛されて生まれてきたことも、愛されて大人になったことも」
「愛し方が一つだけじゃないってことも?」
「ええ、そうね。シャーロットの言う通りだわ」
「フレイ」
「なに?」
「マチルダは忘れたりしないと思うよ。大人になっても。ずっと覚えてるよ、絶対」

このエリジウムが楽園でいられる寿命は短い。
多数の移民を受け入れざるを得なくなったいま、やがて人口は過密し、治安は乱れ、格差が生まれ、空気は濁り、緑は搾取され、水は汚れ、エリジウムは第二の地球と化すだろう。
ここはもはや理想郷ではなくなり、私たちはいやというほど見慣れた乱雑な生活へと引き戻される。
楽園を手に入れようとした罪深さを、そう遠くない未来、私たち全員が思い知る時が来る。必ず。
そして宇宙のどこか遠くに第二の楽園が築かれ、一部の選ばれた特権階級だけがそこに暮らすことを許される。他の大多数を置き去りに。
私達は欲深く、忘れっぽい生き物だから。

「同じことが繰り返されるだけ」
「えっ?」
「なんでもない」

だけど私はそれでも構わない。
この日常が永遠ではないとしても。
この関係がただの惰性の延長でも。
私とフレイがお互いに抱く愛情にささいな食い違いがあるとしても。
少なくとも今、私は愛されていて、それで幸福なのだから。

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