これは夢なのだろうかと、ナンシー・ホルブルックは起きぬけのぼやけた頭で考えた。
私の部屋にエリーがいる。バスルームから出てきたばかりで、濡れた髪をタオルでぞんざいに拭っている。薄いキャミソールが丸い胸や腰や背中のラインを浮き上がらせて——
「あ」
目が合ってしまった。
「おはよ」
エリーが微笑む。
「……おはよう」
友人と言えども寝起きの顔を見られるのは恥ずかしく、ナンシーは視線を臥せてもごもごと答えた。
「勝手にバスルーム借りたよ」
ここでエリーはちょっと言葉を切って、未だ夢の世界に片足を突っ込んだままのナンシーに向かって首を傾げた。
「覚えてる?」
覚えてる? 何を? 質問の意味を掴みきれず、ぐるぐると思考を巡らせる隙間でナンシーはシーツの中の体を丸めた。素肌を撫でる布地の感触が心地好い。
素肌……そうだ、自分はいま服を着ていない。寝起きの脳はようやくそのことに思い至り、同時に昨晩の出来事をも鮮やかによみがえらせた。エリーが遊びにきたこと、話をしたこと、笑ったこと、自分を好きだと言ってくれたこと、初めてキスをしたこと、そして……
「……覚えてる」
「そう。よかった。ナンシーあのまま寝ちゃったから……服着せようかと思ったんだけど起こしちゃいそうだったから、ごめんね」
風邪引かないようにねと朗らかに笑うエリーが普段とまるで変わらぬ様子であることに、何故こんなに寂しく腹立たしい気持ちを覚えるのか。ナンシーにはまるで分からなかった。
ナンシーがバスルームから戻る頃にはエリーはすっかり身支度を整えて、ベッドの端に腰掛けてぷらぷらと足を揺らしているところだった。
子供っぽい癖だがどうしても直らないのだと話していたことを思い出す。
「ごめんね」
エリーがふと顔を上げる。
「ほら、昨日返事も聞かないで、なんか勢いであんなことしちゃって」
「ああ……」
そうだった、とナンシーが頷く。昨日はただ流れのままにキスをして抱き合ってじゃれて触れて……結局自分はエリーの告白に対して言葉を返せていない。
「どうする?」
「どう……って」
やり場なく逃がした視線の先でカーテンが揺れた。
「そ、じゃ、返事はいつでもいいや」
「……うん」
二限目の終わりを告げるベルが鳴った途端、廊下は生徒たちでごった返す。
教科書を抱いたナンシーはスチールロッカーの冷たい扉に頭をもたせ掛け、眼前にある階段を眺めていた。賑やかな男女が靴音を鳴らして交差する、その見慣れた階段を。
やがて踊り場で一人の女の姿を認めた途端、彼女の心臓は痛いほどに跳ね上がった。向こうも目が合うなり嬉しそうに微笑んで、小走りに駆け上がってくる。
どこにいてもすぐにエリーを見つけられるのが不思議だった。同じくらいすぐにエリーが自分を見つけてしまうことも。
「ナンシー! 一緒に行こ!」
「うん」
——いつも通り。
ナンシーは口の中で呟いた。
一限目と二限目は別行動。以後は同じ授業を取っていて、ランチも同じテーブルで食べる。なにもかもいつも通り。
——なにもなかったみたいに。
廊下の生徒たちは、それぞれ自分のロッカーから教科書を引っ張り出し、あるいは用済みの道具を押し込みながら、友達と言葉を交わしている。ほんの五分間の憩いだ。
中には大急ぎで準備をしている者もいるが、きっと次の教室が遠い場所にあるからだろう。
そんな一人が小走りにナンシーを追い越そうとして、肩をぶつけた。
よろめいたナンシーの手から分厚い教科書が滑る。「あ」反射的に伸ばした右手はすんでのところで本を掴み——その手の上に、エリーの掌が重なった。
それはほんの一瞬の出来事のはずだった。けれど電流はそれを遥かに凌ぐスピードでもって、あっという間にナンシーの全身を焦がした。
周囲のざわめきはおろか、ごめんと謝るエリーの声までもがどこか遠くに聞こえるのは、鼓動がうるさすぎるせいだ。きっとエリーにも気づかれている。呆れられているかもしれない——そう思った。
真っ赤に染まったエリーの頬を見るまでは。
——いつも通り……じゃなかった……
負けず劣らず熱くなっている頬を隠すように、ナンシーは長い髪を垂らしてうつむいた。
日ごと夕暮れは早まりゆく。
校舎の二階はとろりと重たいオレンジ色に照らされ、リノリウム張りの床が凪いだ湖のように輝いていた。真下のグラウンドではアメフト部が声を張り上げ練習に精を出している。
試合を間近に控え張り切る男子生徒の姿を何とは無しに見下ろしながら、長い影を引き連れたエリーは廊下の窓辺をゆっくりと歩いていた。
その時、視界に見慣れた姿が映った。
「ハイ、ナンシー」
エリーが片手を挙げると、階段に腰を下ろしたナンシーも「ハイ」と淡く笑んだ。肩からイヤホンのコードが垂れ下がっている。
「もう帰ったかと思ってた」
「ちょっと考え事してたの」
そう言ってナンシーが立ち上がる。何気ない足どりでエリーの隣まで来た彼女は、指先をつややかな窓に押し当てた。はがれかけたマニキュアが夕陽の色に変わる。
「考え事?」
「一日中ずっと」
授業も頭に入らないほど。
「そっか」
二人の間に一瞬の沈黙が落ちる。それが気まずさを連れてくる前に、グラウンドでホイッスルが鳴った。
すると、まるでそれが合図であったかのように、ナンシーはぐっと顎を引いた。シャープな輪郭の唇をきゅっと引き結び、また開く。
「エリー、朝……返事はいつでもいいって」
——だから、今でもいいよね。
夕日が傾く。二人の息づかいが、鼓動が、髪が、頬が、オレンジ色に飲み込まれる。
そして、二つの影が、一つになった。
