『ごめん、朝は無理になっちゃった』
たった一通のメールが私の気持ちをどん底まで押し下げた。
お昼過ぎからなら大丈夫、メッセージには優しくもそう書き添えられていたけど、それで何が変わるって言うの。
すっごくすっごく久しぶりに一日じゅう一緒にいられるんだって昨日からずっと楽しみにしてたのに……。
もちろんそれが仕方ないことなのは解ってて、だからこそやるせない気持ちでいっぱいになる。出鼻をくじかれるって今みたいなのを言うのかも。
「はー……」
携帯をベッドに投げ出して、何も喋らないそいつをしばらく睨みつけたあと枕の下に押し込んだ。
それならそれでするべきことは沢山あるはずなのに、母と約束してた車庫の掃除も床のワックスがけも、今はやる気になれなかった。
結局昼前まで部屋にこもってだらだら過ごして、暇つぶしに観葉植物の枯れた葉っぱをむしったりなんかしていたら妹がやってきた。なぜか知らないけど怒った顔をしてる。
店の手伝いを代わってもらっておきながら、こうして自堕落にしてる私のせいかもしれない。それにしても腰に手を当てるしぐさが母そっくりだ。
「あたし知ってるんだけど」
「ごめん。何の話かな?」
「だから! お姉ちゃんが! ホテルの人と不倫してんの」
瞬間、みぞおちを蹴りつけられたような衝撃を受けた。いつかはばれること……それは覚悟してた。けどこんなに早く、それも身内相手にだなんて。
私が何も答えずにいるのを見て妹の確信はいよいよ揺るぎのないものとなったらしく、唇を噛み締める顔が歪む。
この子ったらなんて顔してるんだろ。そう思ったら少し冷静さを取り戻せた。
だって家族とは言え、なにも知らない相手に軽蔑の目を向けられるいわれは無い。
「自分だって高校生のころ数学の担任狙ってたくせに。しかも本気で」
「はぁ?」
「『奥さんブスだしあたしの方が絶対かわいい赤ちゃん産めるー』って一人で盛り上がってた時期、あったよね」
「うっざ! うざいんだけど! そんなん言ってみただけじゃん実際なにしたわけでもないし!」
闘志を燃え立たせる妹の声が二段階ほど高まった。一階で仕事中の両親にまで聞こえるんじゃないかって、気が気じゃなくなるくらい大きな声。
「だいたいお姉ちゃんは高校生じゃないじゃん! 大人なんだよ! わかってんの!?」
わかってると素直に答えても、すでに彼女には私の話をまともに聞く冷静さはない。
「めんどくさそうにしないでよムカつく!……アリスもいい人だと思ってたのに。旦那さん裏切って。最低」
「あのね、あんたがどう思おうとそれは仕方ないけど、悪い悪くないの話にするなら非は私にあるからね」
「そうやってかばうんだ」
「好きな相手のことだもん」
「ありえない。しかも女同士でキモい」
この態度。さすがに嫌になる。
深呼吸ついでに壁の時計に目をやると、思った以上に時間が進んでいた。
「今日デートじゃなかった?」
「はぐらかさないで!」
「遅れたら遅れたで私のせいにするくせに……。いいから行っておいでってば。いいの? 私なんかに構って彼氏をがっかりさせても」
すると、あんなに怒っていた妹の顔に迷いが差した。ふっと和らぐその目元は愛する人の顔を思い浮かべたからに違いない。
それと同じ気持ちを私だって持っているってこと、いつかは知ってくれればいいんだけど。
「わかった行けばいいんでしょ、行けば。でもこれで話終わったとか思わないで。もうやめないとお父さんたちに言うから。わかったら普通に男と付き合って」
普通? 普通って、なんかヘンな言葉。
ガソリンスタンドに続く道を法定速度ギリギリで飛ばす私の頭の中は、くだらない物思いでいっぱいだった。
怒りとか歯痒さとか悲しみとか怖い気持ちが、ごった煮のスープみたいに沸騰してる。
泡立った表面でいろんなものが醜く溶けていくのに、たった一つ、アリスに会いたいって衝動だけが形を失えずに戸惑っていた。
本当だったらこんなときは車なんか使ってないで、自分の足で歩くか走るべきなんだ、きっと。でないと不健全な考えばかりが浮かぶでしょ。例えばこのままどっかへ逃げちゃおうかとか。
この町はいいところ。でももう、昔ほどは愛してない。
馴染みのガソリンスタンドはいつもながら閑散としていた。他の誰もが口を揃えるように、立地が悪すぎるんだと思う。
楽しそうに鳴き交わす鳥と虫の声を右から左へ受け流しつつ店に入ると、客はおろか店主の姿すら見当たらないがらんとした空間が私を出迎えた。
白い電灯だけが、頭上でむなしく輝いている。
「誰かいますー? ディランーいないのー?」
返事はない。一度外に出て隣接する修理場を覗いてみてから再び店内に戻った。居るならここしかないはず。そう思ってさっきより大きな声で呼んでみたら、やっと答えが返ってきた。
「今行くよ!」
奥の部屋から店主のディランの声。ごめんごめんと言いながら急いで出てきた彼は額に玉のような汗を浮かべていた。
「いないのかと思った。どうしたのレジほったらかしで……」
「ちょっと向こうで片付けしてたもんで」
「夜逃げ準備とか?」
いかにもありえそうだとからかうと、ディランもつられて笑顔を見せた。
「それもマジに考えてる。えーと給油が30ドル分ね、他には何か?」
「いらない。あー待って、やっぱりそこのコーヒーも買う。小銭ないからこれで」
「じゃあこれおつり。どうも」
彼は受け取ったドル札をレジに仕舞い、そして私が立ち去ろうとする前に急いで話を振ってきた。
「アリスは変わりない?」
「どうかな、普通だと思うけど」
「そっか。最近見かけないから気になって。それにほら、彼女の旦那って……」
クソ野郎だから。青い瞳がそう言いたげにしている。
その目線は私を少なからず戸惑わせた。アリスがDVのことを他人に打ち明けるはずはないのに、ディランはどこまで知ってるんだろう?
ううん違う、逆に何も知らないからこそ探りを入れてるんだ。そんな気がする。
お腹の底にふつふつと沸き上がる感情を押し殺しながら、私はなんとか自然な表情を装った。
「まぁ確かにジャックはあんまりいい噂聞かないね」
「そうだろ? 君だったら仕事でアリスと話す機会も多いだろうし、だから」
「どうなんだろうね。結婚を後悔してるようなことは言ってたけど……そういえば最近他の人と会ってるみたいだから、もしかしたら」
やっぱり思った通り、彼はアリスが好きだったらしい。純朴そうな顔に落ちた陰はあまりに濃くて、絶望にも似ていた。
かわいそうだとは思わない。それどころか今日に限っては、私以外の誰かがアリスの名前を口にするだけでも嫌で嫌で、許せなかった。
「だから余計なおせっかいで邪魔なんかしないでね。アリスだっていい大人なの。いちいち他人に口出しなんかされたくないんじゃないかな」
あー、私ってサイテー。さいてい。ほんと最低。
車に戻って缶コーヒーを開けて、なのに飲む気になれなくて、両肩が鉛になったみたいに重かった。
あの顔。あの失意。思い出しただけで怖くなる。もしもただの片想いじゃなかったら?
二人の間に、店員と客の関係以上のものがあったとしたら?
「ないよ、ない」
自分自身に言い聞かせるためのその声は、ゾッとするほどかすれていた。
この先にUターンできる場所なんてあったっけ。行きよりずっと軽い力でアクセルを踏みながら、急にアリスの顔を見るのが嫌になっていた。
どこまでもまっすぐ続く、ベルトコンベアみたいな道が憎たらしい。そっちへは行きたくないのに。
とうとうつま先がブレーキを踏み込みそうになったその時、助手席のシートに放り出してあった携帯の画面がパッと明るさを取り戻して私の気を引いた。
横目でそれをとらえると同時にひらめいた直感がメールの相手を知らせてくれる。
無視することだって出来たはず。だけど染み着いた反射とは怖いもので、気づいたらメッセージを開いてしまっていた。
『はやく会いたい』
「うー……」
言葉にならない声で喉が鳴る。
自分の車の後部席で膝をかかえて、ただただ間抜けだなって考えてた。
この声もそうだし、何考えてるのか全然わからない私自身も。
私の車はアリスのよりちょっとは広いから、その分お互いの距離が遠くなる。それが今の私にはちょうどいいような気もするし、泣きたいような気にもなった。
「タバサ」
すぐ隣から私を呼ぶ声には戸惑いが隠しきれず、アリスができるだけ優しい言葉を探そうとしてくれているのがひしひしと伝わってくる。
「そんな顔してるのは私のせい? 今朝急に会えなくなっちゃったから?」
「ちがう、自分のせいなの」
「そう……」
アリスはいつも、余計なことは聞いたりしない。今も事情なんて少しもわかってないだろうに、面倒な私に腕を差し伸べてくれた。
「お願い」の言葉に後押しされて指を絡めれば、そのままゆっくり抱き寄せられる。
鎖骨をくすぐる指先がさらさらしてて柔らかい。それに、すぐそばで照れ笑いする声も同じくらい柔らかかった。
「頭の中が……今朝からずっとタバサのことばかり。早く会いたくて。来てくれて嬉しい」
「ほんとに? 私も今日はね、忙しくて」
「仕事が?」
「じゃなくて、気持ちが、かな」
どきどきして落胆して、モヤモヤしてイラついて、もういいやって勝手に沈んでふてくされてたくせにメールを読んだ瞬間全部吹き飛んじゃったりだとか、そんなとこ。
なんでいっつもこうなんだろう。いっそ辛さや寂しさがもっと長続きすればいいのにって時々思う。そしたらアリスを嫌いになれるかもしれないから。
でもそんなの絶対あり得ないってことは自分が一番よくわかってて、それが悔しいのに誇らしいからやっぱり悔しかった。
しばらく無言のひとときが続いた。
そのうち髪を撫でてくれるアリスの手つきが微妙に変化したのに気づいて、私は目を開けた。
甘えたがってるってすぐにわかっちゃうのはアリスが素直だから? それとも私は私が思うよりずっと、アリスに寄り添った存在でいられてるのかな。
体勢を変えて今度は私の方から華奢な体を抱き寄せる。
耳元でこぼれ落ちる小さな吐息が可愛くて可愛くて、思わずゆるみそうになる涙腺に奥歯を噛み締めて耐えた。
頭と心臓がパンクしそうなくらいにこの人が欲しかった。
「ねえアリス……私、謝らないと」
「謝る? 何を?」
「めんどくさい女でほんとにごめんねって」
「そんなこと……」
私の胸元から顔をあげたアリスの茶色い瞳の中に自分自身の姿が映っている。こんなに近くから見つめられているのに、どうしてか、包み込まれるような安堵が広がっていくのを感じた。
「そんな風に思ったことなんかないわ」ただ、といたずらな目が輝く。「不安にさせられたのなら何度か」
「不安……アリスもあるんだ。私のことで不安になるとか、そういうの」
「でもねタバサ、そういうところも好きみたい。たまに少しだけずるいところも」
「えーそんなことないよ」
大げさに口を尖らせたのは、まるで今日の出来事を全部見透かされてるみたいな気になったから。
そんな私をアリスは笑う。そして誘うみたいに人差し指を唇にくっつけてくるから、本当にずるいのはこの人の方だって思った。
指先が前歯に軽く触れる。嬉しそうな顔をしたアリスが、自分も触ってほしそうにしてるのがわかる。
もちろん私もそうしたかったけど、今日は口元の真新しい青あざが気がかりで顔の代わりに髪を撫でた。
あの男のせいでアリスに触れない。胸の奥にざわざわしたものがこみ上げる。あの男が私たちの間に隔たりを作った、その事実が許せなかった。
だけど同じ気持ちでいるはずのアリスの顔を覗き込んだ瞬間、燃え盛っていた激しい炎はたちまち勢いを失った。
アリスはなぜか微笑んでいた。他でもない私のすぐそばで、少しだけ睫毛を伏せて。
見え透いた強がりもなければ恨み言も泣き言もない。ただそうすることがひとつの約束ごとみたいに優しく、甘く、秘密めいたしぐさで私の頬に鼻先を擦りよせた。
「愛してるわ」
「……ごめんね」
「え?」
「アリスのこと誰より大切なのに、大切すぎて時々……頭がこんがらがるの」
こんなに愛してるのに。こんなに一生懸命に見てくれてる人がいるのに。
いつも気がつくと両手はいっぱいいっぱいで、私だけが勝手にバタバタしてるみたい。それを救ってくれるのは一人しかいないってことをすっかり忘れてしまうほどに。
急に自分がバカみたいに思えて笑ったら、そんな私の唇を一度ついばんだあと、アリスは不思議そうにまばたきをした。
「どうかした?」
「うん、あのね。さっきここに来る途中ちょっとだけ考えてたの。このままアリスを連れて……どっかへ逃げちゃおうかって」
今度はアリスが笑う番だった。それだけじゃなくてぎゅっと抱きしめられて、潮の匂いがするふわふわの髪が当たって耳がくすぐったい。
「え……アリス?」
「その考えてたことって」
「うん」
「もう一回……今度は二人で考えてみたりできない?」
お願い。聞き慣れたはずの言葉で涙があふれたのは悲しいからじゃない。
それを伝えられるんだったら、もう何もかも見透かされてたって構わないと、心からそう思えた。
