きみを愛せない世界が悪い

ニュージャージー州ブレアーズタウンから少し外れた場所に居を構えるクリスタルレイク・キャンプ場は、毎シーズン大勢の客で賑わった。
キャンプ場の名前にもなっている湖は広大で、それを取り囲む森は深い。
草花の香りを運んでくれる空気はどこまでも澄み渡っていたし、途切れることのない空は美しく、都会の喧噪や悪臭を忘れて過ごしたい現代人にとってはまさにうってつけの避暑地だったのである。
更に四季を通して癒しの絶景と野性動物——澄んだ声でさえずる数十種類の鳥の中にはこの森固有の種もあった——にも恵まれているとくれば、子供たちの情操教育の一環として毎年行われている夏季キャンプの実施場所に選ばれるのも当然の成り行きと言えるだろう。
そんな訳で、私が初めてクリスタルレイクに足を踏み入れたのも9歳の夏のことだった。

夏季キャンプには大勢の小学生のほかに指導員として何人かの高校生と大人たちが参加する。
私はその中でも料理係のパメラ・ボーヒーズがとりわけ好きで、キャンプ初日からちょくちょく彼女の仕事場にお邪魔しては、器用な手がパンをこねたり卵をかき混ぜたりするのを眺めたものだ。
その日の昼も、私はやはり彼女の仕事場の前に立っていた。

「こんにちは、おばさん」

ノックに応じて中から顔を出したカジュアルなシャツとデニムパンツ姿の女性に挨拶をすると、ミセス・パメラは「いらっしゃい」とにっこりほほえんだ。
濡れた両手をストライプ模様のエプロンの裾で拭い、それから私の顔をやさしく覗き込んでくれる。

「なにかあったのかしら?」
「これからみんなで森の中を探検するの。それで、ジェイソンは来ないのかなあって……」

ジェイソン・ボーヒーズは彼女の一人息子で、今回のキャンプの参加者でもある。
顔に先天的な畸形を抱えていることに負い目を感じてのことか、初日から徹底的に人目を避けるように行動している彼のことが私はずっと気になっていて、どうにかして一度話をしてみたいと考えていたのだ。
ミセス・パメラが呼ばわると、奥の部屋から一人の少年が現れた。
年齢のわりには背が高くて体格もいいのに、その態度はまるで小動物のように気弱で落ち着きがない。
不格好に歪んだ顔に意識がいかなかった訳ではないが、それでも私は一瞬たりとも彼のことを気持ち悪いとは感じなかった。私の心に触れたのはそんなものではなくて……どう言えばいいだろうか? たとえば彼の臆病で優しい空気や繊細な雰囲気、要するに目には見えない何かだった。

「えっと……こんにちは」

軽く手を上げてみると、ジェイソンは怯えたように母親の後ろに隠れてしまった。
右目は完全に潰れていたものの、もう片方の目は涼しげな水色にきらめいていて、その左目だけがミセス・パメラの背後からこちらを窺っている。

「ジェイソン、ちゃんと挨拶なさい」

水仕事で荒れた手の平が少年をたしなめた。
するとようやくジェイソンは恐怖と照れと好奇心がないまぜになった視線を俯かせながら「こんにちは」と返してくれて、それはどうにか聞き取れるくらいのか細い声だったけれど、私は彼と言葉を交わせた喜びでいっぱいになっていた。

「来て、こっちよ」

必死の説得とミセス・パメラの後押しの末にどうにかジェイソンを連れ出すことに成功した私が足を向けたのは、友達の声とは真逆の方向だった。
きょとんとする彼の手をなかばむりやり引っぱって、賑やかなざわめきから遠ざかること数分。湖沿いをぐるりと半周して森に入り、また少し歩いた末にようやくたどり着いたのは、丸く開けた広場のような一角。
そこは日当りのよい静かな場所で、向こう岸には私たちが寝泊まりするコテージ群が小さく見えている。

「昨日見つけたの。お気に入りの場所だけどジェイソンにだけ教えてあげる」

他の子には内緒だからねと念を押すと、ジェイソンはぱっと顔を輝かせて何度も何度も頷いた。
その時、頭上からぴいぴいと甲高い声が聞こえてきて、私とジェイソンは同時に上を仰いだ。少しばかり身長が足りないせいでよく見えないが、どうやら大木のうろに鳥が巣を構えていて、その中の雛が騒いでいるらしい。

「可愛い声。なんていう鳥だろうね?」
「わからない……」

うーん、と二人して首を傾げているうちに美しい赤銅色の親鳥が昆虫をくわえて戻ってきた。
途端に雛たちの元気な大合唱がはじまって、私たちは「耳が痛い!」と顔を見合わせて笑った。
子供とはたいしたもので、その頃にはどちらともすっかり打ち解けて長年の親友かなにかのように振る舞っていたのである。
それから私たちは別の樹の根元に腰を下ろし、みどりの木漏れ日を浴びながらいろいろなことを話し合った。とはいえ恥ずかしがりやでお喋りが苦手なジェイソンはほとんど聞き手にまわっていたのだけれど。

「あ、そろそろ戻らないと」

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。

「また明日迎えにいくから一緒に遊ぼう。それから……ずっと仲良しでいてね。約束よ」

そう言って白い頬に唇を押し当てると、彼の顔は夕日のように染まったのだった。


翌年、10歳の夏も私はキャンプ場に居た。
真っ先に向かったのはもちろんスタッフ用のコテージで、驚いたことにその玄関先では一人の少年がそわそわと辺りを見回しているところだった。

「ジェイソン!」

去年よりも更に背の伸びた友人はまっすぐな笑顔で私を出迎えてくれた。

「モニカ! きっ、きてくれて、うれしい」

吐息に紛れそうなほど小さな声でジェイソンが言う。恥ずかしそうに顔を伏せて喋る癖は健在だったが、私はそれすらも嬉しくてたまらなかった。
ジェイソンは相変わらず温和ないい子で、クリスタルレイクはこの上なく美しい平和に満ち、二人の“秘密の場所”には前年と同じ種類の小鳥が巣を構えていた。
それからの一週間、私たちは会えなかった一年を埋めるかのように話して、笑って、はしゃいで、また笑った。
そして幸福の時間は矢のように過ぎ去る。
「また来年ね」と約束を交わした時のジェイソンの嬉しそうな顔は、今に至るまで忘れられない一番の思い出になっている。

だけど私は翌年の夏季キャンプには参加できなかった。夏を目前に両親ともども車の事故に遭ったせいで、それどころではなくなってしまったのだ。
子供だった私は目の前のことしか考えられず、やっとジェイソンのことを思い出したのは怪我が全快した秋口になってからだった。
——そして、甘ったるい金木犀の香りが漂う秋晴れの下で、私はかけがえのない親友を失った。

「嘘よ、嘘、嘘嘘! なんで、なんでそんなひどいこと言うの?」
「ねえモニカ、ママも悲しいわ。だけど——」
「やだ! もうやめて聞きたくない!……嫌だ、だって、だって……」

そんなの絶対にありえない。だってまさかジェイソンが、そんなはず……それにあの優しいミセス・パメラが“おかしくなった”だなんて誰が信じられるの?
私は何もかもがとんでもない間違いに違いないのだと自分に言い聞かせ続け、終いにはもう何も見たくない、聞きたくもないとすべてから目を逸らすことでかろうじて毎日をやり過ごすようになっていた。
何年も何年も、この世に溢れる無情と悲劇の多さをわきまえた大人になっても、まだ……。

あれから随分の時が流れた。この十年間、幾度となく忘れてしまおうとさえ思った懐かしい町に突然戻ってくるつもりになったのはどうしてだろう、自分でもよくわからない。
鏡面のようになめらかな湖が太陽を呑み込もうとする頃、私はクリスタルレイクの傷んだ桟橋に腰を下ろして、裸足のつま先を水中に遊ばせていた。
人間の手を離れて朽ちたものは人間によって持ち込まれたものばかりで、湖や森はあの頃よりも輝きを増したようにすら見えるのだから皮肉だ。

茜色と紫色のグラデーションに染まった空は刻一刻と表情を変えて夜に近づきつつある。だけど閉鎖されたキャンプ場に人の気配はなく、そろそろ帰りなさいと声をかけてくれる者などどこにもいない。
その時、足先から広がる波紋の中心に黒い人影がぬっと映りこんだ。
長身で……おそらく、男。私のすぐ後ろに静かに佇んでいる。
ゆらゆらと歪む姿に見覚えなどないはずなのに、私はなぜか全ての辻褄が合ったような気になり、確信とともに振り返った。
夕暮れの茜雲を背負うその人は頭からすっぽり被った麻袋で顔を隠していて、左目の部分に丸く開いた穴からこちらを窺っていた。
その奥に隠された瞳の色だって、私はちゃんと覚えている。

「えっと……こんにちは」

それはあの日と同じ、たどたどしい一言。ただひとつ違うのは私が涙をこぼしていることだった。私は泣いていた。笑いながら、泣いていた。

「ただいま、ジェイソン」

そして、私を見下ろす男も、どこか見覚えのある優しいしぐさで頷いたのだった。

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    13日の金曜日ジェイソン
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