昨日までの境界線

真夜中の散歩は、近ごろの彼の日課になっている。
夜を選ぶのは人目を気にしなくて済むからだ。顔と両手を包帯で覆い隠し、その上ボロボロの帽子とロングコートを纏った大男など、普通は見たいとは思わないだろう。
幸い、今の彼の住まいは僻遠の人口少ない田舎町にあって、真夜中を過ぎればまず他人とすれ違う気遣いはなかった。
——ただし、一人の例外を除いては。

「こんにちはー、じゃないや。こんばんは」

メイン通りから遠く外れた小道の一本を奥へ奥へと進み行き、別の道との合流地点に差し掛かったとき、エリーは向こうからやってきた。
声をひそめて、控えめに手を振っている。小走りになっていてもほとんど足音がしないのは体重が軽いのか、靴のせいなのか、それとも天性の才能なのか、ダークマンはいつも不思議に思う。

「やあ」

すぐそばまでやってきたエリーに小声で挨拶をすると、彼女はにこりと微笑んだ。その隣に寄り添うゴールデンレトリバーも、ふさふさの尻尾を振ることで応える。
この一人と一匹とは、ひと月ほど前、やはり深夜の散歩中に鉢合わせたのがきっかけで付き合うようになった。
(後日エリーが言いづらそうに打ち明けた「一瞬、変態さんかと思いました」という一言にダークマンは落ち込み、しかしそのあと大いに笑った。)

「今日はこっちの道にしましょうか?」

エリーの声をきっかけとして、全員の足が一歩を踏み出した。
最近このあたりに越してきたばかりのエリーも、深夜の散歩を習慣としていると言う。
どうして、と尋ねると、彼女はシンプルにこう答えた——「夜が好きだから」
そんなエリーは今日は出かけにシャワーを浴びてきたらしく、髪がまだ湿っていた。乏しい明かりの中でも、つやつやとした輝きがわかる。

「ん?」

少々長く見つめすぎていたらしく、エリーが怪訝に顔を上げた。

「あ、いや、なんでも」
「そう?……あれ、なかなか取り替えられませんねぇ。目がちかちかして困るのに」

彼女が指差す先には不規則な点滅を繰り返す街灯、その息も絶え絶えの拍動は、確かに目には優しくない。
黒いソフト帽のつば越しに明かりを見上げ、ダークマンはうなずいた。

「もうそろそろ切れそうだな。だけどこれはこれで情緒があると思わないか?」
「あはっ。情緒? なるほど、そういう意見もあるのかぁ。面白い人」

笑うその表情に、街灯に負けず劣らず不規則に脈打ち始める心臓を意識した。血管を通して、全身に特別な気持ちが広がっていくようだ。エリーと出会ってから、幾度となく味わった気持ち。
最初は気のせいだと言い聞かせ、次には自分を叱りつけ、努力の甲斐なく押さえ込むことができなくなったその感情の名前を、ダークマンは知っている。
弱い自分を罵った回数は知れない。いっそエリーの前から消えてしまおうと考えた回数も。
来る夜も来る夜も、『もう誰ともかかわりあうのはやめよう』という誓いをやすやすとひるがえした自分自身に思い悩んだ。
——だが結局、彼は今夜もエリーといる。
この弱い気持ちさえ吐き出さなければ、この浅ましい感情にさえ気づかれなければ、今のひと時を壊さずに済むのだ。
彼はもう、手放さなくて済むものは何も手放したくはなかった。
ふと気がつくと、エリーがなにか言っていた。

「え?」
「ぼーっとしてるとつまずくよって」
「ああ。すまない、大丈——うわ!?」
「ほら、だから言ったのに」

しっかり段差に足をとられてつんのめったダークマンの腕を掴んで支えてやりながら、エリーはくすくす笑った。

「このへん道が悪いから。これも情緒に入ります?」
「これは……ぜひとも補修してもらいたいな……。あ」
「ん?」
「いや、……なんでも」

ただエリーの手が離れていくことが、無性に寂しかった。

短いデートは、エリーの家の前で幕を閉じた。
いつもと同じように二人はここでさよならをする。また明日と約束とも呼べないような脆い言葉を交わして、手を振って。

「おやすみ、エリー」
「うん、おやすみ……」

エリーが鉄の門を開いて、犬を中に入れた。だがエリーはその後に続こうとはせずに、なぜか自分の靴の爪先に視線を落としたまま立ち尽くしている。
不思議に思ったダークマンが声をかけようとしたその矢先、エリーは顔を上げた。ぐっと伸び上がる彼女の髪が、玄関の明かりを浴びてオレンジ色に輝く。
そして、そっと囁かれた声までもがあたたかな暖色に灯っているように、ダークマンには感じられた。
逃げるように家の中に駆け込んだエリーの背中が見えなくなって、初夏の風の中にはダークマンひとりが残された。
たった一息で綴られた言葉に答えるのは明日の夜になるだろう。
チカチカと点滅する街灯の下を通り抜け、黒いコートの背中が闇に溶けていく。その背中は、紛れもない喜びに満ちあふれていた。

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