警報が鋭く鳴り響く。
非常灯が断続的に点滅し、薄暗い訓練用通路を、無機質なアナウンスが冷たく満たす。
『避難訓練を開始します。全乗員は指示に従い、迅速かつ落ち着いて避難行動を――』
その声が終わるより早く、一人の影が走り出していた。
訓練用の簡易軍服に身を包んだ細身の女性――ステラ・メイヤー博士。
いつもは穏やかで落ち着いた生物学者が、今はただの疾走体と化している。
「……おい博士、待て! 急にどうした!」
驚いたデスティファノが声を張るが、その呼びかけも虚しく、博士の背中はもう数メートル先。
足音が反響し、まるで空気を裂く刃のように響き渡る。警報より速く緊急事態感を撒き散らす。
彼も慌てて走り出すが、足の速さには自信があるにもかかわらず、まったく追いつけない。
「ちょ、待て——博士! はえーんだって! 全力疾走するな!」
その後ろから、二人につられて走ってきたのであろうゲディマンが、息を整える間もなく叫ぶ。
「これは避難訓練だぞ! 短距離走じゃない!」
ステラは振り返りもせず、無言で鋭くカーブを切る。その動きは普段の様子からは想像もつかないほど俊敏で、迷いがない。
衣擦れの音もブーツの足音も、あっという間に聞こえなくなる。
やがて、避難ゲート前にたどり着いた彼女は、両手を膝に当てて大きく息を吐く。
肩で呼吸しながらも、その唇にはどこか満足げな微笑みが浮かんでいた。
数秒後。
デスティファノがようやく追いつき、息を切らしながら指を突きつける。
「避難訓練は、指示に従って行動するためのものだろ……!」
「早くゴールすれば、その分早く終わるかなって思って。それに避難ってスピード勝負では?」
「今は“落ち着いて避難”がルールだろうが! それに、カメラであんたのダッシュが全部記録されてるぞ」
「ああー、そうか。記録されるなら、もっとフォームを整えるべきだった……」
「そこかよ」
そこへ、ゲディマンも息を切らせながら手すりにつかまりつつ現れた。
「きみ……いったいどこからその脚力が湧いてくるんだ……」
「毎日鬼ごっことかしてるからですかね」
デスティファノは不安げに眉をひそめ、嫌な予感を押し殺せずに問いかけた。
「誰と」
返事はステラではなく、ゲディマンから冷ややかに返ってきた。
「ゼノモーフ」
その言葉に、ステラの目がパッと輝き、「そうだ!」と閃いたように声をあげる。
無表情の中に、確かな高揚感が宿っていた。
「運動能力向上のために、訓練にゼノモーフとの追いかけっこを取り入れてみてはどうでしょう?」
「却下!」
デスティファノが即座に叫んだ。
部屋の空気は、静かで冷たい。
モニターには「避難訓練 評価レポート(未確定)」の文字が点滅している。
腕を組んで睨みをきかせているのは、セキュリティ責任者の女上官。その隣では、副官らしき人物がタブレットにカツカツと記録を打ち込んでいた。
「――全員、訓練中の“落ち着いた行動”の重要性は理解していたはずです」
「……はい」
3人の声が、見事なタイミングで重なった。
「なのに、最初に全力で走り始めたのは……」
ゆっくりとした動作で、女上官の視線がステラに向けられる。
ステラは憮然と無の境目の表情で、軽く会釈をしただけだった。
「ええ、私です。申し訳ありません。反省しております」
「その顔で言われても全然反省してるように見えんな」
副官がボソッと呟いた。誰も反論しない。
「……で、あなたたちも後を追って走ったと?」
今度はゲディマンとデスティファノに視線が向く。
「いえ、自分は博士を止めようとしただけで……」
デスティファノは姿勢だけはきっちり軍人然としていたが、声のトーンは完全に萎んでいる。
「ただ、博士の足がとにかく速くて。追いつけず、結果的に自分も……走ることになり……まあ、はい。記録に偽りはありません」
ゲディマンも急いで口を挟む。
「私もただ、部下と一等兵を止めようと——」
「いや、あんたもけっこう本気で走ってたよな」
即座に突っ込みを入れるデスティファノ。もう道連れにしてしまえ、の精神である。
「……たしかに……」
ゲディマン、あっさり白状する。
一度口を滑らせたデスティファノの勢いは止まらず、彼はさらに言葉を続けた。
「そもそも責任の大半はメイヤー博士にあるのでは? あの速さじゃ誰だって止められません。まさか、ゼノモーフと遊んで鍛えていたとは夢にも思いませんでしたし」
「……ゼノモーフと?」
女上官の声にわずかな棘が混じる。それを察したゲディマンが、すかさず部下をかばう。
「“遊び”というのはやや語弊があります。あくまで研究の一環で——な? メイヤー博士?」
「はい。日課です」
「日課!?」
一瞬、上官の動きが止まる。
「……それはもう、“避難訓練”以前の問題ですね。あなたたち三人、今後半年間は避難訓練のサポートスタッフとして勤務していただきます。模範的行動を身につけてください」
「ええっ!?」
デスティファノの声が盛大に裏返った。
ステラは特に動じた様子もなく、「拘束時間はどの程度でしょうか?」と冷静に確認している。
ゲディマンは深く長いため息をつく。
「……私もか。私はただ……走っただけなのに……」
「だからそれがいけなかったんですよ、博士」
「元はと言えば君が——いや、君こそが、すべての元凶だろうが!」
