助手と深夜航路

 金属の壁が吐き出す微かな低音だけが、船の眠りを告げていた。
 ステラの個室は、他の乗員とさほど変わらない造りだった。殺風景な壁、収納スペース、簡易寝台。清潔で無感情で、ただ眠るためだけに用意された空間。
 薄暗い照明が、まるで深海に沈む船室のように沈鬱な色を落としていた。
 空調のかすかな唸りが、時折ステラの浅い呼吸と重なって波を打つ。
 ベッドに横たわってから、すでに二時間が経っていた。けれど眠気は訪れない。夢ではないはずなのに、皮膚の表面を、奇妙な気配が撫でていった。重力でも風でもない、呼吸のような——。
 気づいた時には、扉が音もなく開いていた。寝台の上で、ステラはゆっくりと視線だけを動かす。
 鉄の床を踏むブーツの音。ゆったりとした足取り。その輪郭が暗がりに浮かび上がった瞬間、彼女の神経は即座に相手を認識した。

「まだ起きてたの」
「……眠れなくて」
「そう。じゃあ、少しお喋りしてあげる」
 リプリーはそう言って、ベッドの縁に腰を下ろした。それだけの動作なのに、ステラの身体がびくりと震える。
「ありがたいんですけど、今日は自分のお部屋に戻りましょう。送って行きますから」
 彼女は目を逸らしながら身体を起こしかけた。けれど、リプリーの指が肩に触れる。
 軽い力だった。なのに、重力以上の拘束感があった。
「声、出さないで」
 囁きが近い。鼻先が触れ合いそうなほどの距離。甘く、低く、しかしどこか暴力的なまでに強い抑圧を含んでいた。
 ステラは思わず目を逸らそうとするが、顎をすくい上げられる。
「もし出したら——どうなるか、試してみる?」
 ぞわりと悪寒が背中を這う。冷や汗が額を伝い、喉が引きつく。それをすべて見透かしたように、リプリーは笑った。
「大丈夫。私がちゃんと、黙らせてあげるから」
 目元には余裕がありすぎて、無垢な子どもにも見える。
 だがその声の奥には、獰猛ななにかが潜んでいた。
 リプリーの指先が頬に伸びる。ステラは反射的に肩を引いたが、手は執拗に追いかけてきて、彼女の肌に触れた。
 その触れ方はあまりに優しかった。
 だからこそ、恐ろしかった。
 刃物のように研ぎ澄まされたやさしさ。皮膚だけではない、内側の内側を覗かれる感覚。

 ステラは勇気を振り絞ってリプリーの手をふりほどく。
 そして素早くベッドから立ち上がる。夜間着姿のそのシルエットは、白衣のときよりずっと細く、か弱く映る。
 リプリーは、それを見てほんの一瞬、笑った。
「もうおしまいです! ほら、戻りましょう。もう寝た方がいいです。私もあなたも」
 ステラはリプリーの手を優しく取って、部屋の外へ導こうとした。
 けれどリプリーはその腕を掴み返し、軽やかに半回転させると、ステラの背中を壁に押しつけた。
 見開かれた目は、すぐに困惑と牽制に細められる。
「リプリーさん。いい加減にしてください」
「嫌なの?」
「いや、です……」
 掠れた声は、拒絶というにはあまりに弱く、むしろ導きを乞うかのように聴こえた。
 リプリーは笑わない。ただ静かに彼女の手を取り、指を一本ずつ丁寧に開いていく。その手のひらを、まるで何かを捧げさせるかのように、自分の胸の上へと導いた。
「本心かどうか、自分で確かめてみたら?」
 ステラの指先に、柔らかさと温度、そしてリプリーという異質な存在の生命感が伝わってくる。
 そこにあるのは人間のそれに似ていて、けれどまるで違う。胸の動きは緩やかで、深く、どこか水中生物を思わせる律動を刻んでいた。
「これが私。怖い?」
 ステラはため息をつく。わざと苛立ちをにじませながら、それでも声は崩さない。
「いいえ、リプリーさん。あなたを怖いと思ったことはありません。……まあ、たぶん、そんなには」
 リプリーは真っ白い犬歯を見せて笑った。人間にしては尖りすぎている。
「あなたは私が好きなのよ。だからこそ、私に支配されたいと願ってる」
 声にあるのは、確信と優しさ、そして支配欲。
 彼女は知っている。ステラの中に、触れられたことのない空白があることを。
 その空白を自分の形に削り、刻み、満たそうとしているのだ。

 ステラは答えない。答えることが、敗北に等しいとどこかで理解していた。
 だが、答えなくてもリプリーには伝わっている。反応がすべてだった。皮膚のわずかな硬直、呼吸の乱れ、視線の揺らぎ。逃れようとすればするほど、それがすべて暴かれていく。
 黒い爪の指が、服の隙間を縫って背中に触れる。冷たい。ゼノモーフと同じ、ほとんど体温を持たない肌。
 ステラの脚の間に膝が差し入れられ、そっと身体を押し上げられる。服越しの摩擦に、体がかすかに痙攣する。
「う、……っ」
 こぼれた声に、ステラ自身が息を呑んだ。
 小さなうめき声。それだけで、何かを壊してしまった気がした。
 この時間、船の住人たちはほとんど眠っているはず。
 けれど彼女の耳は、必死に通路の気配を探っていた。誰かの足音が、話し声が、すぐそこまで来ているのではないかと——。

「聞こえないわよ、何も」
 リプリーの低い声が囁く。あたかもその恐怖すら可愛がるように。
 彼女は背中に腕を回し、ぐっと体を寄せてくる。冷たい壁と、熱を帯びた身体。挟まれて、逃げ場はどこにもない。
「やめてください」
「あなたの“やめて”は、いつも口先だけね」
 唇がすぐそこにあった。まるで獣が遊ぶように、楽しげに微笑んでいた。
 ステラの腕がリプリーの肩に添えられる。
 押し返すつもりだった。けれど、指先は力を失い、そこに触れたまま止まった。
「リプリーさん……お願い……」
 “お願い”の意味が、自分でもわからなかった。
 止めてほしいのか、進んでほしいのか。身体が足元から溶けていく。

 そのとき、遠くで足音がした。

 カツン――カツン――。

 鉄板の床を踏む音が、確かにこちらへと近づいてくる。
 ステラは息を止め、目を見開き、リプリーの肩に指を立てる。
 ハイブリッドの女はステラの耳元で囁いた。
「聞こえる? 誰かが来てる。ねえ、どうするの?」
 ステラの全身が粟立つ。
 震える身体。けれどそこには、欲望と羞恥が混ざっていた。
「このまま……声も出せずに、ここで私に征服されていくのか……それとも?」
 指がゆっくり、ステラの胸元の布をなぞる。指先だけで。なぞるだけで。
 ステラは声を上げかけるが、リプリーがそっと唇に指を当てる。
「しー……」
 目が潤む。声も出せず、壁にもたれたまま動けない。
 足音はやがて通り過ぎ、遠ざかっていった。だが、残された空気は熱く濡れて、重く張りついていた。
 怪物じみた女が囁く。
「ふるえてる。ほら、ちゃんと静かにして」
 その声は、命令にも子守歌にも似ていた。
 抗えば壊される。従えば、もっと深く侵される。選択肢など、最初からない。

「どうして……どうしてあなたって……いつもそうなんですか?」
「だってあなた、おもしろいのよ」
 声が笑う。だがその奥に、本物の情がある。
 ステラの欠けたところも、壊れかけた強さも、全部——。
 食べたいほど、愛してる。
 そしてそれを、ステラも知っていた。本当は、最初から。
「すぐに壊れそうなのに、ぜんぜん壊れない。壊れないのに、壊されることを怖がってる。ねえステラ、本当は壊してほしいんでしょう?」
 ステラは小さく首を振った。その動きには、意思があった。だが、それは否定ではない。願望を否定しようとする抵抗だった。
 リプリーは彼女の髪を梳きながら、微笑む。
「大丈夫。ちゃんと抱きしめてあげる。全部終わったら、ちゃんとね」
 そして、そっとステラの額に唇を寄せた。
 それはキスというより、封印のようなものだった。

「いい子ね。とてもいい子……“私のステラ”」

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