オリガ号の照明は、いつも通り静かに天井を照らしている。
冷たく硬質な金属の壁に反射のゆらめきが細く揺らぎ、遠くで空調の微かな唸りが響いていた。かすかな油の匂いが、どこか機械仕掛けの生き物のようなこの空間を満たしている。
そんな静寂を、突然破ったのは――。
「うわあああああああああっ! 来るな来るな来るなあああ!」
ものすごい勢いで廊下を駆け抜けてくる影。
軍服がばさばさと鳴り、無骨なブーツが信じられない速度で床を蹴っている。
必死の形相で逃げてくるのは、ヴィンセント・デスティファノ一等兵。
そしてその背後には、ぬるりとすべるような動きで追いかけてくる黒い影――艶やかな頭部、骨ばった外殻、長くしなやかな尾。ゼノモーフ。
「あらら」
思わず、口から声が漏れた。
追いかけっこを繰り広げる二人――というか一人と一体は、どこか息がぴったり合っている。まるで訓練用のシミュレーションでもしているかのような連携だ。
とはいえ、実際のところは全く違う。前者は命がけで逃げており、後者はどうやら純粋に“遊んでいる”つもりらしい。
二人は私の前を風のように通り過ぎていく。廊下の十字に交わる角でくるりと向きを変えるのを見届けた後、私も小走りでその角を曲がった。
すると、そこではもう、『追いかけっこ』が『組み技』に変わっていた。
床に押し倒されたデスティファノを、メランザーナが前脚でがっちりと押さえつけている。
尾がゆらゆらと楽しげに揺れていて、その様子からは一切の悪意も殺意も感じられなかった。
「お疲れさまです」
そう声をかけると、冷静を装っていた兵士の顔が見るも無惨に歪んだ。唇の端に埃がついている。途中で何度か転んだのだろう。
「おいメイヤー! なに突っ立って見てやがる! こいつ、こいつを早くどかせ! お前んとこのペットだろうが!」
怒鳴り声が響いた。私はゆっくりと近づいてしゃがみ込む。
メランザーナはちらりとこちらを見たが、すぐに視線を戻し、デスティファノの額を鼻先でちょこんとつついた。
「人に助けを求める言い方じゃないんですよねえ」
「うるさいっ! お前、楽しんでんだろ……!」
その言葉に、私はつい唇を緩めた。睨まれても、痛くもかゆくもない。
デスティファノは怪我ひとつしていなかった。軍服に擦れ跡はあるけれど、どこも破れていない。
ゼノモーフが本気を出せば、服どころか、骨の一本や二本は簡単に砕けてしまうはずなのに。
それだけに、メランが彼を押さえる力をいかに繊細に調節しているかが伝わる。
私の可愛いゼノモーフは、丁寧に、でも心から楽しみながら遊んでいたのだ。そんな光景に誇らしさが胸にじわりと満ちていった。
もちろん、口には出さなかったけれど。こんな場面でそれを言おうものなら、彼は本気で発狂するに違いない。
「メランザーナ」
私が名前を呼ぶと、ゼノモーフはデスティファノの顔をしばらく見つめてから、前脚をゆっくりとほどいて後ずさった。
そのまま床に座り、尾をくるりと体の周囲に巻きつける。まるで遊び終えた猫を思わせる仕草だった。
「……なあ、メイヤー博士」
「はい」
「これで俺の昇進に響いたら、あんたの責任だからな」
「それは私の本意ではありませんね。じゃあ、報告書は私が書きましょうか。“兵士、ゼノモーフとの交流を通じて対異種共存性向上に貢献”とか」
「書くなッ!」
怒号が廊下に響いた。けれど、その声からは、最初のような悲壮感はもう感じられなかった。
メランザーナは床にうつ伏せて、ゆっくりと尻尾を振っている。その背中をそっと撫でると、かすかな振動が伝わってきた。
何が彼女の心を満たしているのかは、完全には理解できない。
でも、少なくとも彼女が誰かと“一緒にいること”を選ぶ瞬間に立ち会えたことが、私には何より嬉しかった。
機密性:低
提出先:USMオリガ号上席指揮官補佐室
報告者:Dr. ステラ・メイヤー
件名:ゼノモーフ個体“メランザーナ”による非計画的接触事案についての報告
1. 概要:
本日09:42、当船18階第7居住ブロック北側廊下にて、ゼノモーフ個体“メランザーナ”が乗員(ヴィンセント・デスティファノ一等兵)と短時間にわたる物理的接触を行いました。
この接触は敵対行動ではなく、むしろ同個体の社会的関心行動および遊戯的接近の一環と判断されます。負傷者はおらず、船内資産への損害も発生しておりません。
2. 事案の詳細経緯:
当該時刻、メランザーナはラボの隔離環境から一時的に外出(※後述)し、廊下にて一等兵と偶発的に接触、その後追尾に移行。
追尾は約56秒にわたり、最終的に廊下東側交差点にて、メランザーナが一等兵を組み伏せる格好で終息しました。
なお、身体拘束においては咬傷・爪傷・尾部打撃などの典型的攻撃行動は一切認められず、終始ソフトな接触に留まっていたことを確認済みです。
3. 行動分析:
メランザーナは成体ながら高度な自己制御能力を保持しており、接触対象を物理的に危険にさらす意図は確認されませんでした。
今回の行動は、以下の要因が複合的に作用した可能性があります:
・近接コミュニケーションに対する興味
・身体的刺激への欲求(=“遊び”)
・一等兵による過去の“非常食の投擲提供”に関する記憶の再活性化
4. 施設的・人的影響:
**物的損傷:**なし
**人的損傷:**なし(精神的動揺あり。カウンセリング対応準備済)
**目撃者:**乗員3名(必要に応じて後日ヒアリングを実施予定)
5. 原因および責任所在について:
隔離環境のセキュリティロックが定期点検後に手動設定のままとなっていたことが原因と考えられます。
点検後の再設定を私が失念していた可能性が高く、この点については深く反省しております。
ただし繰り返しますが、同個体の行動は終始非攻撃的かつ統制されており、従来のゼノモーフ行動基準を大きく逸脱するものではありません。
むしろ、個体の高度な判断能力と安全な対人応答の可能性が示唆された貴重な実地データと考えられます。
6. 今後の対策および提案:
・隔離区画セキュリティの自動化システム導入(人的ミス防止)
・船内安全教育におけるゼノモーフ行動理解の啓発強化
・メランザーナの行動記録を“非脅威個体”ラベル候補として新たに提出予定
付記:
一等兵による感情的な抗議はありましたが、客観的記録に基づけば今回の接触はむしろ今後の対異種交流可能性を示唆する建設的な事例といえます。
以上、慎重かつ前向きな評価をもってご査収いただければ幸いです。
Dr.ステラ・メイヤー
USMオリガ号 指揮官補佐室 御中
差出人:ヴィンセント・デスティファノ 一等兵
件名:ゼノモーフ個体“メランザーナ”による身体的拘束行為および研究員による管理不備に関する抗議文書
拝啓 任務遂行お疲れ様です。
私は本日、当艦船18階第7ブロック北廊下にて、ゼノモーフ個体“メランザーナ”による一方的な追跡および物理的拘束を受けました。
これについて、Dr.ステラ・メイヤーによる報告書が先んじて提出されていると存じますが、内容の一部に明らかな矮小化および“遊戯的”といった不適切な表現が含まれており、事実誤認を正すために本書を提出いたします。
1. 接触の性質について:
Dr.メイヤーの報告では、敵意のない遊戯的接近とされていますが、当方からすれば完全なる襲撃です。
150kgを超える生物が尾と爪を構えながら突進してきた状況を“遊び”と称するのは、甚だ非現実的かつ不謹慎ではないでしょうか。
実際、私は廊下を全力で逃走し、最終的には床に組み伏せられ、身動きを封じられるという屈辱的状況に置かれました。
同僚たちに笑われたのはもちろん、以後の勤務態度や士気に重大な影響を及ぼす懸念があります。
2. 責任所在について:
同個体の隔離ロックが解除されたままであったことについて、Dr.メイヤーは「再設定忘れの可能性」を認めつつも、「非攻撃的だったからセーフ」と結論づけています。
しかし、これはセキュリティ体制全体の問題であり、たまたま今回が無傷で済んだからといって、正当化されるものではありません。
ゼノモーフに“手加減”の意図があったかどうかなど、当事者からすれば知ったことではありません。
こうした事案における最大の問題は、“可能性”を発生させた時点での管理体制の不備であることを、強く申し上げます。
3. 精神的被害について:
報告書においては「精神的動揺あり、カウンセリング紹介済」と書かれておりますが、
私は“紹介”など頼んでおりません。
勝手に“ゼノモーフに追いかけられて悲鳴を上げた男”という扱いになっており、極めて名誉を傷つけられ、不愉快極まりない状況です。
4. 要望事項:
・隔離区画のロック管理責任者の明確化、および再発防止策の文書化
・研究員による乗員への事前通知なしの「実地観察的接触」の一切禁止
・“メランザーナ”個体への行動範囲制限および私の居住区からの最低200mの距離保持
付記:
Dr.メイヤーの報告書末尾に「非脅威個体」としてのラベリングを提案する文がございますが、
私としては、その前に「非脅威研究員」かどうかの再検討をお願いしたい所存です。
敬具
ヴィンセント・デスティファノ
一等兵(USM オリガ号)
廊下には、人の気配がなかった。照明は減光モードに切り替わり、壁面の金属が鈍く冷たく光っている。
空調が吐き出す微風が耳元をかすめ、あたりは病棟の夜のように静まり返っていた。
ステラ・メイヤーは一度だけ深く息を吸い込み、それから控えめに呼び出しブザーを鳴らす。
応答はない。少しだけ迷って、もう一度。今度は、さっきよりも長めに。
「……誰だ」
低く、くぐもった声がインターコム越しに返ってきた。
ぶっきらぼうで、尾を引く怒気がわずかに混じる。
「メイヤーです。夜分にすみません……少しだけ、お話できればと思って」
返事はなかったが、数秒後、スライドドアがわずかだけ開いた。
隙間から覗くのは、私服に近い軍用Tシャツ姿のデスティファノ。ドア枠に肩を預け、目元だけをこちらに向けていた。
「まさか、あの怪物も一緒にってんじゃないだろうな」
「言いません。約束します」
彼の皮肉をやわらかく受け止めながら、ステラは手に持っていた紙包みをそっと掲げた。
包みの中には、ピーナッツバター味の栄養バー――温め済み。それと、カフェイン入りの軍用ドリンクではなく、カモミールのハーブティー。
夜を静かに迎えるための、彼女なりの選択だった。
「寝る前に何か甘いものでもと思いまして。もし、よろしければ」
「……菓子で済むと思ってんのか」
「思っていません。ただ、少しでも……」
ステラの言葉は、途中でふっと落ち着きを含んだ沈黙へと変わっていった。
「貴方の気が、少しだけ和らいでくれたらと。それに許してもらえなくても謝りたかったんです、私のわがままみたいなものです」
デスティファノはしばらく無言のまま、ドアの向こうで何かを考えている様子だった。
やがて、扉が無言のまま、ドアが完全に開いた。それは、彼の心が少しだけ動いた証のように感じられた。
「入るか?……って言いたいところだけどな」
不器用に口を濁しながら、彼は視線を逸らす。
「時間も時間だし、それはまずいだろ。……あんたも、嫌だろうし」
その言葉の端々ににじむ気遣いに、ステラはどこか安堵してしまう。
と、彼の背後から、冗談めかした声が飛んできた。
「なんなら俺が出かけてこようか?」
「うるせえ、黙ってろ!」
ルームメイトの軽口に、デスティファノは舌打ち混じりに振り返って怒鳴る。
そしてステラのほうに向き直り、やや乱暴に、けれど手加減した仕草で紙包みを受け取った。
「俺、情けなかったか?」
「いえ、とんでもない」
即答だった。ステラは迷いなく言葉を続けた。
「逃げるというのは、勇気の一形態です。特にあの場面では、貴方が冷静に状況を読まなければ、もっと危険な事態になっていたかもしれません」
「冷静? あんなもん“うわあああああ!”って叫びながら走ってただけだ」
「その“うわあああ”が適切な判断だったということです」
真顔で返され、デスティファノは鼻を鳴らした。けれど、その肩はほんのわずか、軽くなったようにも見えた。
「とにかく、あの子にもよく言って聞かせておきます」
「施錠もだろ」
「そうでした。ごめんなさい」
小さく頭を下げたステラの顔は、どこか申し訳なさそうで、でも少し嬉しそうでもあった。
彼が無事だったこと。怒られても、まだ話せること。それ自体が、彼女にとっては充分だった。
「ま、ありがとな。……しかし、カモミールティーなんて初めてだな」
「好みがよくわからなかったので、私の好きなものを選びました。よく眠れると思って」
なので――と、彼女は白衣の袖口が少しだけ捲れていたのを整えながら、やさしく言葉を結んだ。
「おやすみなさい。また明日」
