エステルの春祭

グリーンの車体の市営バスはバランスを崩しそうになりながらも急カーブをやりすごし、スピードを落とすことなく無舗装の小道に進入した。
タイヤが小石を踏んでガタガタ揺れる。道幅は車体を擦りそうなほど狭く、窓際の私は気が気じゃない——ああ、もう。またタイヤが浮いた。
バスが小道を抜け、多くの車が行き交う広い車道に合流すると、さっきまではいくらかバリエーション豊富だった景色はたちまち古びたビルの並びにかき消された。
退屈した私の視線は自然と乗客たちに引き寄せられる。

年に一度のプリム祭を翌日に控えたバスの中は、一時帰宅の兵士たちでごった返していた。
基地を出発してからすでに二つの停留所を通過したというのに、車内にはまだ二十人近くの男女が居残っている。
特に目立つのは前方に固まって立っている若いグループだった。男と女が半数ずつ。私と同じ、くすんだ色の軍服に身を包んだ彼らの多くは徴兵されたばかりの18歳から、せいぜい20歳と見える。
この運転の荒さなんて少しも気にならないみたいに揃いも揃って晴れ晴れとした顔をして、よほど家族に会えるのが嬉しいみたい。

私は——基地を離れるのをあんな風に喜んだことがない。
帰る家も家族もないのだから当然と言えば当然か。
今日だって直前までさんざん迷った挙げ句、ドアが閉まる寸前にやっとバスに飛び乗ったくらいで、しかもいまだに少し後悔してる。上司の言う通り基地に残るべきだったのかも、なんて。

そうこうしているうちにバスは旧い市街地に入った。
乗客の何人かが降り支度を始め、私も名入りの軍用バッグを肩に担ぐ。
急な坂道を登りきった先に次の停留所が見えてくる。今にも倒れそうに傾いだ標識も褪せたベンチも、すべてが記憶通りだった。
予定の時間より十分も早く停まったバスから降りると、外は予報通りの煮えきらない天候で、少し肌寒く、埃混じりの風が吹いていた。
あたりの風景は八ヶ月前と代わり映えせず、季節が移り変わったのかどうかすらも怪しく思える。懐かしい場所は懐かしいまま、少しも変わっていなかった。
この道を直進したところにある、私が育った女学校もきっと当時のままなのだろう。だけど私は学校見物に戻ってきたわけではなかった。

「ベリータ!」

振り返ると両腕を広げたエリーがいた。いかにも嬉しげな顔をして、黒っぽいスキニーパンツを履いた脚で駆け寄ってくる。

「エリー」

人当たりのいい笑顔に胸がさざ波立つ。軽く抱きしめられ、頬が触れ合うと波紋はもっと広がった。
昔からこの女が苦手で仕方なかった。明るくて、人懐っこく、素直で、誰からも愛される。どこにいても存在感をふりまくエリーはまるで未知の生命体だから。

「今のバス! 走ってくるの見てたけど、すっごいスピードだったね。昨日は20分も遅れたくせに」
「寝ぼけてレーシングカーとでも間違えたんじゃない」

一呼吸の沈黙が落ちた。気がつくとバス停の周りの人影はまばらで、私たち二人だけが取り残されている。
エリーが私の手を握りかけて、寸前で思い止まったのが視界の端に映った。

「ねぇベリータ——」
「あのさ、その呼び方……」

昨日の晩にこちらから電話をかけたときも、エリーは私をそう呼んだ。いや、それを言うなら、昔からずっとそう呼ばれている。
言葉の続きが見つからず、意味もなくバッグを担ぎ直した。誰からも呼ばれたことのない愛称は私をぎこちなくさせる。ある種の不安と呼んでもいいくらいに。

「嫌? でも私はこっちの方が好きかな、イジーとかベルより」

嫌ならやめるけど、と言いつつも、その顔に悪いと思っているようなところはない。銃器と資料とわずかばかりの私物が入ったバッグの重みを肩に感じながら、私はエリーから目をそらした。

「好きにしたら」
「うん! 寒いから早く帰ろ。むこうに車停めてあるの」


エリーが独りで暮らすアパートは、今も記憶にある通りの姿形を保っていた。もしかしたら、私が思うほど町は生き急いだりしてないのかもしれない。
外壁は薄いレンガ色で、ベランダつきの窓が等間隔に並んでいる。どの部屋も外から見る限りじゃ代わり映えしなくて、花が飾ってあるか、いないか程度の違いしかない。
室内の配色も以前のままだ。インテリアは少しは変わっているのかもしれない。覚えてない。
クリーム色と差し色のターコイズブルーで統一された空間はいかにもエリーらしい選択に思えた。
だけど身を隠しやすい色——モスグリーンやカーキや黒色に慣れ親しんだ私には馴染まないし、こうしてただソファー座っているだけでもさぞかし浮いて見えるはず。

道すがらの30分間途切れることなく喋り続けていたくせに、部屋に着いてもエリーはまだ足りないというように喋り続けた。
私はほとんど聞き役に回った。私が話して聞かせられる出来事はない——少なくとも、エリーの生活にふさわしい話題は持ち合わせていなかった。
別に不満な訳じゃない。八ヶ月ぶりに聞く話は何もかもが新しすぎて、まるで遠い世界の絵空事に聞こえるというだけのこと。

「待って……忘れる前にコンタクト外す」
「いつから?」

やっと喋るのをやめて隣の洗面所で鏡に向かって身を乗り出しているエリーの横顔にそう訊いた。

「え? 朝から……ああ。えっと、三ヶ月くらい前からかな? デスクワークが増えたら一気に視力落ちちゃって。高いからメガネと併用だけどね」

私と同じように改めて時の流れに感じ入った様子で、エリーは洗眼カップを置いた。そして部屋に戻ってくるとテーブルの上のメガネをひょいと取り上げ、装着する。

「どう? 可愛い?」
「悪くないんじゃない」
「そっかー。嬉しいな。これがあるとちょっとかしこそうに見えるってわりと好評なんだよね」

笑うエリーを見ていたらバスの中の若者を思い出した。誰かに会えるのを心底喜んでいたあの笑顔——

「よいしょっ」

エリーが隣に腰を下ろしてくる。いくら狭いデザインだからって二人がけのソファはここまでの密着を余儀なくされるほどじゃないと思うけど、なんとなく言葉にはしなかった。

「あ、着替えてくる?」

私が軍服姿のままだとたった今気づいたように唐突に発せられたその提案を無言ではねのける。
疲れているわけでもないのに、なぜか立ち上がる気になれない。
エリーはもうさっきまでみたいに喋らなかった。途中だったはずの話題を再開することもなく、至近距離から私の髪に触れた。
いつものように、邪魔にならないように後ろで編んでまとめてある髪を、こっちが注意する間もなくほどかれる。

「何して……」
「やっぱ下ろしても似合うなと思って。髪伸びたね。明日ちょっとだけ切り揃えよっか、このへんだけ」

目が合って、急に二人とも口をつぐんだ。笑みを象っていたエリーの唇が緩慢に開いて、私の名前を呼ぶ。

「ベリータ」

甘い声が鼓膜に押し入ってくる。

「ベリータ」

冷たい指に髪をかきあげられる。
その指が耳をかすめ、後頭部に回されて、エリーの吐息が私の唇にぶつかった。軽く触れた舌先が無理に押し入ってくることはなく、唇が触れあっている間、エリーはずっと頬を撫でてくれていた。

「……あれ、キスしちゃったね」
「アンタがしてきたんじゃない」

それを他人事みたいに、そんな驚いた顔して。驚いてるのは私の方なのに。全然嫌じゃないかも、って。
目を細めるエリーの顔に、紛れもない懐かしさと暖かさを覚えた。

「ねぇベリータ」

それは親愛の言葉。私はずっと、知らない振りをしていただけだった。

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