たった一度の祈り

ある朝ビッグチャップが目を覚ますと、“何かしなければ”という強い焦燥感が身体中にみなぎっていた。
寝ぼけた思考をガンガンと叩きつけるような、強烈な刺激が頭から手足の末端までを駆け抜ける。
だが困ったことに、“何を”するべきなのかがわからない。自分は必ずそれを為さなければならないのだという使命感だけがどうしようもなく募っていき、まるで降って湧いたような唐突な変化はビッグチャップを大いに戸惑わせた。昨日の夜、眠る前は確かにいつもと変わらなかったはずなのに……

彼女は眼の無い顔できょろきょろとあたりを見回したり、つま先立って空気の匂いを嗅いだりした。
かつて礼拝堂だったこの場所の天井は高く、ところどころ欠け落ちながらもなんとか残っているはめ込みのステンドグラスが薄ぼんやりと光って見える。左右の窓は拾い集めた資材を自らの分泌液で固めて作った壁で塞いであるので、まだ朝も早い今、室内は黎明のように暗い。
いてもたってもいられず歩き回る四角い部屋の中でビッグチャップは懸命に考えたが、自分を突き動かすものの正体はさっぱり掴めそうになかった。

「今日はご機嫌ななめだね?」

だから隠れ家に食料を持ってやってきたロリーナにそう訊かれても、尻尾を下げてみせるのが精一杯だった。
この安全な隠れ家を知る唯一の存在であるロリーナは、ビッグチャップが生まれたときから側にいる。種族の違う二人は親子のように、姉妹のように、恋人同士のように寄り添って生きてきた。

「なにかあったの? 怖い夢でも見たのかな?」

ビッグチャップは細長い頭をふるふると揺らしてこれを否定した。
むしろ昨日の夢は幸せだった。夢の中で自分は、ロリーナと一緒に巣を作っていた。ここの壁と同じようにぼこぼこした巣にはエッグがたくさん固定されていて、それを二人で見上げながら生まれるのを今か今かと待っている、そんなところで目が覚めたのだ。

ロリーナが心配してくれたおかげで少しは気持ちが楽になった気がするものの、得体の知れない焦燥感は続いていた。いつものように喉を鳴らそうとしても、つっかえたようになってうまくいかない。
たまらずビッグチャップはロリーナの胸に顔を押し付けた。暖かくて、柔らかくて、優しいにおいがする。
それなのに癒されるどころかもどかしい思いはつのるばかりだ。
嬉しいの。私はいま嬉しいんだから——ビッグチャップはそう思った。あるいは、自分に言い聞かせようとした。

翌日になると、事態はもっと悪くなっていた。
体内はまるで小刻みに震えるようだし、痺れるような、妙な感覚が朝からずっとつきまとって離れない。
ビッグチャップは異変をごまかすかのように食事を詰め込み、キャットフードの缶詰をいつもの4倍量も平らげてロリーナを驚かせた。
今日は特別体がだるい。
太陽が登り詰める頃は廃墟が一番明るく、暖かくなる時間で、ビッグチャップはステンドグラス越しの日差しを浴びながら眠るのが日課だった。
ロリーナが側にいてくれれば物陰に身を隠す必要はないし、安心してぐっすり眠ることができる。
うつらうつらしているとロリーナがやってきて、ビッグチャップの筋ばった表皮から半透明の薄い膜のようなものをつまみあげた。

「あれ、チャップちゃん……これどうしたの? 脱皮?」

見ると腰のあたりにも薄皮が浮いている。それを剥がしてやりながら、ロリーナは納得してうなずいた。

「なるほどー、だからぴりぴりしてたんだ」

確かに成長期には感情の乱れが付き物だ。
不思議なのは、ビッグチャップはとっくに成長しきっているということ。彼女にはもう脱皮は必要ないはずだった。

夜になってロリーナがいなくなった部屋の隅で、ビッグチャップは鋭い爪で缶詰をこじ開け、生肉にかぶりつき、ミルクを舐めた。
とにかく寂しくて寂しくてたまらない。だが、腹が満たされたところで空虚は埋まらないし、焦りは消えなかった。
側に誰もいてくれない、それだけのことが無性に耐えがたく思う。いつもならそんな夜は胎児のように体を丸めて眠ることでやりすごすのだが、今夜の寂しさは格別で、そんなものではごまかせそうになかった。

彼女は手当たり次第に辺りのものを掴んでは砕き、尻尾でなぎ倒し、壁に体当たりした。
身体中の痺れはいつしか明確な痛みにすりかわり、それはあたかも体が真っ二つに裂けるかのようだった。
だが実際に裂けたのは薄い皮だけで、剥がれ落ちた脱皮殻は自分でも驚くほど大きい。
喉の奥から勝手にこみ上げてくる悲しい声を、彼女はどうしても止めることができなかった。


一睡もできない長い夜を乗り越えた朝、ロリーナがやって来る頃にはビッグチャップはいくらか落ち着きを取り戻していた。
それでもたまらず飛び付くとロリーナは尻もちをついてしまい、「悪い子」とくすくす笑いながら頬をくっつけてくれた。その感覚が、なぜかいつもと違っている気がする。
腕を回して抱きしめる感覚も、今までとは違う。まるでロリーナが急に小さくなってしまったみたいに。

「チャップちゃん、私わかったよ。なにが起きてるのか。……チャップちゃんはね、女王さまになるんだよ」

女王になる! それはこの上なく素晴らしい名誉に思えた。
なのに頭を撫でてくれるロリーナは寂しそうで、後悔にも似たものがその顔を陰らせていた。

翌日、ロリーナはいつもより遅い時間にやってきて、早い時間に帰っていった。
キスもハグも、明らかに前の日よりやりづらくなっていて、二人はどんどん噛み合わなくなっていく。すり減った歯車と歯車のように、弦の錆びたバイオリンと弓のように、このままでは取り返しのつかない事態を招きそうだった。

ビッグチャップはロリーナが去っていった両開きのドアの方をじっと見ていたが、やがて急速に早まりつつある脱皮の頻度が寂しさを塗り替えた。
ビッグチャップの姿は以前とはまるで違っている。
重たい頭を支えられるように首は太くなり、肩幅と胸部は広がって、姿勢は前屈ぎみに変わった。なめらかだった頭部にはフリルのような凹凸が生じつつあり、形も後ろへいくほど大きく広がっている。
背中の突起は鋭いトゲに形を変えた。尾はもっと長く太くなった。そして、目線は以前よりずっと高かった。

次の脱皮が終わる頃には胸部のあたりにもう二対の腕が生えてきて、ビッグチャップは最初それをもてあましたものの、すぐに自分の一部として受け入れた。
戸惑いは殻と一緒に脱ぎ捨て、今は自分の変化が誇らしく思う。
これを見せたい相手は一人しかいない。だけどその相手はここにはいない。
悲しいのか、嬉しいのか、疎ましいのか、誇らしいのかもわからず、ビッグチャップは押し寄せる欲求に任せて吼えた。天井を仰ぎ、足を踏ん張り、身を揺すり、尻尾を振り立ててひたすらに叫んだ。
それでもやって来ないロリーナを、彼女は初めて憎いと思った。

翌日、翌々日、そしてさらに次の日も、ビッグチャップは一人きりだった。狭い礼拝堂は薄暗く、外ではひっきりなしに雨音が聞こえている。
そんな音を聴くともなしに聴いている彼女にはもはや昔の面影はない。彼女の肉体は女王として生まれ変わったのだ。
そして、その下腹部には新たな変化が芽生えつつあった。
ずきん、ずきんと体内が脈打っている。間隔は次第に短くなり、ビッグチャップはそれが子を産む準備が整いつつあることの合図だと本能で悟った。
次第に彼女はロリーナのことを考えなくなっていた。かつてあれほど執着していたのが嘘のように、今は子供たちのことしか考えられない。
これからこの身に宿す卵と、そこに眠る幼い我が子たち。まだ見ぬ生命は間違いなく自分の同胞である。会える日が待ち遠しかった——その日は遠からずやって来るだろう。
大きな体を丸めて眠る夜、ビッグチャップは夢を見なかった。これからの彼女には未来しかないのだから、もう過去の想い出を見る必要はなかった。


こんなに心地よい朝なのに、なぜだろう、鳥は一羽も鳴いていなかった。
ステンドグラスを透かして、礼拝堂には清らかな光がシャワーのように降り注いでいる。

「すごく会いたかった」

やってきたロリーナに、ビッグチャップはもう抱きついたりはしなかった。尻尾も振らない。キスもせがまない。

「綺麗になったね」

ロリーナはまぶしそうに女王となったビッグチャップを見上げた。
その顔がビッグチャップには急に異質に思える。自分とは違う。獲物。ロリーナはただの獲物だったのだ。家族ではなく。

「すごく綺麗だよ。今まで見た女のひとの中で一番」

ビッグチャップは長い尻尾の先をぴくりと動かした。それはこの鋭い切っ先でロリーナの心臓を貫く場面を想像してしまったゆえの反射的な作用だった。
体の陰に隠すように、尾を後ろに下げた。ロリーナが気づいた様子はない。小さな人間は神に祈りを捧げる信徒のような表情でビッグチャップを見上げている。
その双眼から、朝の輝きにも似た滴がぽろぽろこぼれ落ちた。とめどなく、いくつも、いくつも。

「チャップちゃ……」

——お行きなさい(そばにいて)

女王は命じた。
——ロリーナ(ロリーナ)

背中を向けるロリーナに一心に念じる。
天井の古びたステンドグラスがひとかけら割れ落ちて、いっそう強い光がちょうど二人を隔てるように射し込んだ。

——私を呼んで。

最後に振り返ったロリーナの表情が、彼女にはもう見えない。

「チャップちゃん」

大好きだよ、ささやかれた最後の言葉と共に、ビッグチャップという存在はこの世から消え失せた。

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