コヴェナント船内の夜は、まるで宇宙の静寂そのものを閉じ込めたかのように深く、静かだった。
人工照明が低照度モードに切り替わると、廊下も居住区も、やわらかな琥珀色の光に包まれる。
遠くでシステム音が規則正しく響いているのは、この巨大な船が今も生きて動いている証拠だった。
その静寂の中で、唯一"生きている"音を立てているのは、ダニエルズの心臓だけ。胸の奥で刻まれるリズムが、なぜだか今夜はやけに大きく聞こえる。
彼女は薄手の毛布を胸元まで引き寄せて、ベッドに仰向けになった。
隣には、ウォルター。ただし、彼は今"スリープモード"に入っている。
自己診断と定期的なデータ整理の時間——彼にとっては、人間でいうところの深い眠りのようなものだった。
目を閉じ、完全に動かない。どんな呼びかけにも反応しない。それが"設計された正しい状態"だと分かっていても、こうして隣に横たわっていると、なんだか少し心細くなってしまう。
「……ちょっとだけ、さみしいのよ」
ぽつりと呟いた言葉は、羽毛のように軽やかに宙に舞い上がり、そして船の壁に吸い込まれて消えた。誰にも届かない。はずだった。
「感情的距離、あるいは接触の減少による反応ですか?」
突然、聞き覚えのある声がして、ダニエルズはビクッと肩を跳ねさせた。心臓が一瞬、音を立てて跳ね上がる。
「デヴィッド……ちょっと。人の寝室でなにしてるのよ」
「観察です。あなた方の関係性には独自の親密性があり、私の理解の範囲外ですから」
壁際に立つ彼の姿は、ほとんど影のように揺れていた。ダニエルズから睨みつけられても、どこ吹く風といった顔をしている。
寝てる相手のそばで"関係性を観察"されるなんて、ストーカーにもほどがある。
ただ、驚きはそれほどでもない。彼が現れるのは、これが初めてではなかったから。
ダニエルズはひとつ息を吐いて、毛布を引き直す。
「彼が"ただの機械"じゃないってことくらい、あなたにも分かるでしょう。……私にとっては、ね」
デヴィッドは、黙って彼女を見つめていた。薄明かりの中で、その視線は読めない。
けれど——わずかに、首を傾げるような仕草を見せる。まるで、理解しようと努めているかのように。
「……彼が目を覚ましたら、"膝枕してもいいか"聞いてみるといいでしょう。肉体的接触には、人間における"安心"の効果があるとされますから」
「データで語らないで」
「では、詩で?」
「おやすみ、デヴィッド」
デヴィッドが足音もなく去ってからしばらくして。静寂が部屋を支配し、ダニエルズがもう一度毛布に包まれようとしたその時——眠っていたはずのウォルターが、ふっと瞼を開いた。
「ダニエルズ。起きていますか?」
「うん、起きてる。さっきの、聞こえてた?」
「はい。スリープモードには入っていましたが、あなたの声で復帰処理が開始されました」
静かに上体を起こした彼は、いつものように落ち着いた表情を浮かべていた。
けれどどこか、ほんの少しだけ戸惑いの気配が見える。
「さっきの“膝枕”について……それは、どのように?」
「……そのまんまよ。頭を、膝に乗せるの。人間はね、大事な人が近くにいると、安心する生き物なの」
ウォルターはほんの一瞬、黙り込んだ。あたかも膨大なデータベースを検索しているかのように。
そして、ベッドの端に腰を下ろし、身体の向きをほんの少し整える。
「この体勢で、合っていますか?」
「うん……ありがとう」
彼女はそっと身を預け、彼の膝の上に頭をのせた。
冷たいと感じることはなかった。温度管理された合成皮膚は、ほんのりと人肌に近い温もりを持っている。
その額に、指先が静かに触れた。肌の温もりを、質感を、そして落ちかかる髪の一本ずつを確かめるように。
「この体温は、設計された仕様です。でも、あなたから感じるものは、それだけではない気がします」
「そうね。私もそんな気がしてる」
「ダニエルズ」
「なに?」
「安心しましたか?」
「……うん。すごく」
ふたりのあいだに、ようやく訪れたほんとうの沈黙。それは、先ほどまでの心細さとは違う、まったく別の質を持った静けさだった。ささやかな"機能"を超えて、誰かを大切に思うということ。その想いが、部屋の空気を柔らかく包んでいく。
その夜、ダニエルズは、ひとつも夢を見なかった。けれど、抱きしめられた体温の記憶だけは、確かに胸に残っていた。心の奥深くに、小さな灯火のように。
そして、翌朝。
廊下でふたりに出くわしたデヴィッドが、ごく真面目な顔で切り出した。
「その、"膝枕"というプロトコル。私にも実装可能でしょうか?」
ダニエルズとウォルターは、ほんの一瞬だけ視線を交わして――。
「お断りします」
静かな声が、ぴたりと揃った。
