おもいでばなし

最初に彼と出会ったのは、焼けるようなアスファルトの上だった。
熱気の立ち上る地面に横たわり、色褪せた白線までもを赤く汚している彼は、立ちすくむ私に気がつくと「ううう」と獣のような唸り声をあげた。
やたら体の大きいそのひとは真夏のテキサスにあるまじき服装をしていた。
汗で色が変わったストライプ模様のワイシャツにきっちり締めたネクタイ、ところどころが擦れて毛羽立ったスラックス。
極めつけに、屠殺場で使われているような大きなエプロンと顔にはマスクときたもんだ。
更に傍らに転がるチェーンソーが異様さを増長していた。
そんな変な男なんて放っておけばいいのに、「ハロウィンはまだ先ですよ」なんて話しかけてしまったのはきっと、暑さで朦朧としていたせいだと思う。
血まみれのマスク男はまさに手負いの獣だった。傷つき、気が立っていて、でも起き上がる気力すらないような。
そんな人間が人通りの少ない炎天下の道に倒れていればまず長くはもたないだろう。そんなの、気分が悪い。
とりあえず少しでも涼しい場所まで連れていこうと、子供がぬいぐるみを抱えるときのように厚い胸に両腕をまわし、そのまま引きずってじりじりと後退する。
汚れた服からはむせ返るような血と汗と泥の匂いがした。
人の気も知らない大男が手足をばたつかせて暴れるせいで、やっと木陰までたどり着いたときには私まで全身汗みずくになっていた。
道に置きっぱなしだったチェーンソーを取りに戻り、木の幹にもたれて座る男の隣に置いてやる。その凶器のほうへ彼の腕が伸びたときはさすがにギクリとしたが、無骨な手は銀色のハンドルをひと撫でしただけだった。
ほっとしたような表情に、私も少しだけ安心する。
「大事なもの?」
マスクの顔が小刻みに頷いた。男はすっかり落ち着き……というよりは半ば放心したように脚を投げ出している。
「そう。すごい血だけど、どこ怪我したの? 救急車いる?」
ちょっとそこらを散策するだけのつもりだった私のショルダーバッグには救急キットなど入っているわけもなく、大して役には立てないとはわかっていたが、だからといってじゃあこれでと立ち去る気にもなれなかった。
とりあえず、とペットボトルの水を差し出すと男は素直にそれを受けとった。
無数の傷のなかでもざっと見る限り左腕からの出血が一番多かったので、止血処置をするならここだろうと判断してバッグからタオルとハンカチを取り出す。
お気に入りだったのだが、仕方ない。深い切り傷の走る腕にガーゼ代わりのハンカチを当て、その上からタオルで縛って固定した。
激しく首を振って痛みに耐え、それでも大人しく応急手当を受ける不思議な大男に対して、私は正直なところ興味を抱きはじめていた。
ほんのちょこっとどうかしてる身なりではあるけど、人を見かけで判断してはいけませんって子供の頃から言い聞かされてきたし。
「あなた——」
名前はなんていうの? そう尋ねようと口を開いたとき、遠くで響いた大声に、私たちは同時に飛び上がった。
「おーい、ババ! どこだー?」
声はこちらに向かっているようだ。マスク男の反応から、それが彼の知り合いであることがわかった。
「ああ、よかった。家族の人? 呼んでこようか?」
私の提案に、男は何故か慌てた様子で首を横に振った。
それからいくらかふらつきながら立ち上がると、私の両肩を掴んで樹の陰に隠すように押しやる。服越しに触れた手の平は力強くて怖かったが、男はすぐに両手を放して、ここにいるようにと身振りで示した。
呆然とする私に背を向け、脚を引きずりながらも声のする方向へと急ぐ彼は二度三度とこちらを振り返りながら、やがて立ち上る熱気の向こうへ消えていった。
それから一週間もたたないうちに再開を果たすことになろうとは、その時は考えもしなかった。

——さて、なぜ突然こんな昔話を始めたのかというと、いま私の目の前に広がっている光景があのときと全く同じだからだ。
元気のいいティーンエイジャーを追って家を飛び出したきりなかなか帰ってこないババを探していた私が見つけたのは、熱い地面に転がる大きな体だった。
ただし、私の姿を認めた彼が発したのはあの日のような獣の唸りではなく、安堵したような声だ。
「嬉しそうな顔されても困る」
そんなきらきらした瞳で見上げないでほしい。
「まあいいや、立てる?」
肯定の声音でババが唸る。
ところが彼は座り込んだまま両腕をこちらに突き出して……。その意味するところに思い当たった瞬間、なんて無茶を言うんだろうと吹き出してしまった。
「いやいや、無理だからね。抱っことかしたら私まちがいなく潰れるからね。そもそも一ミリたりとも持ち上がらんって」
なんて言いつつ、結局肩を貸してあげる私ってなんて優しいんだろう。
出来るだけ自分で歩く努力をしてくれとお願いした甲斐あってか、今にも転びそうな危ういバランスではあるがなんとか目的の方向へ進めている。
やがて下生えの灌木まで辿り着いた私たちは、その濃く茂った緑の中に身を隠すように倒れ込んだ。
ドレイトンかチャーリーのどちらかが探しにくるまでこうしていよう。
あるいは私が家まで走って彼らを呼びにいくことになるかもしれないが、すっかり疲れ果ててしまっていて、すぐには動けそうになかった。
あっちも——流行の服を真っ赤に染め、車道にうつぶせに倒れたままピクリとも動かない男を見る——どうにかしなきゃならない。
と、ババが傷だらけのチェーンソーをそっと引き寄せて膝に乗せた。その手付きには道具への愛着と信頼が窺える。
「……ほーう。ソーヤーさんはこんな泥まみれ血まみれになってまであなたを助けてやった私よりもチェーンソーの方が大事ですか、そうですか」
わざと拗ねたような声を出す。
途端にババがびくりを肩を跳ね上げた。くるくるのくせ毛を乱して頭を振る彼はこれ以上ないくらい分かりやすく狼狽していて、可愛らしいが傷に障ると困るので「冗談だよ」と腕に触れた。
すると——その手を、強く引かれた。
鉄臭いエプロンに頬を押し付けた私が状況を理解したのはたっぷり数秒が経過した頃だった。
私の頭を撫でるババの手はなだめるようで、これじゃどっちが子供かわかりゃしない(二人とももう子供じゃないけど)。
「わかった、わかったよ」
笑いながら広い背中を叩くと、ババはようやく私を解放して満足そうに頷いた。
さて、干涸びてしまう前に助けを呼んでこようと立ち上がった時、まっすぐな道路の向こう側に顔を出した一台の小型トラックに気がついた。
不安定なアイドリング音を響かせながら、黄色い砂でくすんだアスファルトの上を法定速度よりいくらか緩やかなスピードで走っている。あちこちにへこみがあって、明らかに洗車不足のその白い車には嫌というほど見覚えがあった。
「ナイスタイミング。ドレイトンが来たみたい」
そう言ってババの方を振り返ると、彼は捨てられた子犬のような、安堵よりも不安を滲ませた瞳で私を見上げた。
「……気持ちはわかるよ」
きっと私まで一緒に怒られるんだろうなあと覚悟を決めると、おんぼろのトラックに向かって手を挙げた。

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