私は、あなたの声がすき

 眠りに就く前の船内は、時が止まったかのような静寂に包まれていた。
 普段なら聞こえてくる機械の低い唸り声や、微かな足音さえも、今夜は息を潜めているようだった。薄暗い廊下に浮かぶ非常灯の青白い光が、壁に踊る影を作り出している。
 ダニエルズは、通路の向こうに立つ人影を見つけた瞬間、胸の奥で何かが凍りついたような感覚を覚えた。
 無機質なライトが彼の輪郭を照らしている。背筋の通った後ろ姿は、彫刻のように完璧で、しなやかな指先まで美しかった。
 けれど、その完璧さこそが、彼女の心に小さな棘を刺すのだった。
 それがウォルターか、デヴィッドかは、見ただけではわからない。

「……ねえ」
 
 呼びかけた声が、思っていたよりもずっと弱々しかった。自分でも驚くほど、か細い声だった。
 喉の奥で言葉が引っかかり、まるで子供が暗闇の中で誰かを呼んでいるみたいな心細さがあった。
 人影が、ゆっくりと振り返る。その動作さえも、機械的な精密さと人間らしい滑らかさが混在していて、ダニエルズの心をざわめかせた。
 顔には笑みも怒りもなかった。ただ、静かな無表情。湖面のように穏やかで、同時に底知れない深さを秘めた表情だった。

「……ダニエルズ。どうかしましたか?」

 ——その声だ。
 機械的な均質さの中に、ほんのわずかな揺れが混じっている。
 人に似せようとした不完全さ。プログラムされた完璧さの隙間から、何かが漏れ出しているような、そんな声だった。
 彼の声は、完璧じゃない。でも、その不完全さこそが、彼がウォルターである何よりの証だった。
 ダニエルズは、長い間止めていた呼吸をようやく再開するかのように、深く息をついた。緊張で強張っていた肩の力が、ふわりと抜けていく。

「ううん、ちょっと確認したかっただけ。……あなたが、あなたかどうか。」

 ウォルターが首を傾げる。その頭の周りに、小さな疑問符が浮かんでいる。

「私の姿に、変化がありましたか?」
「ないわ。だから怖いの」
 
 ダニエルズは苦笑いを浮かべながら言った。冗談のような口調だったけれど、そこには確かな本音が込められていた。
 心の奥底に潜む、言葉にできない不安が滲み出している。

 「あなたたち、そっくりすぎる。……見た目も、話し方も。たまに、息が止まりそうになるの。」

 ウォルターは、少しだけ目を伏せた。その表情は、プログラムされた計算の結果ではなかった。
 それはあたかも、心を持つものが初めて複雑な感情に触れたときの、戸惑いのような表情だった。
 彼の瞳に、ほんの一瞬だけ、人間らしい影が差す。

「……では、私たちだけの確認方法を設けましょうか?」

 ダニエルズは、思わず目を細める。

「合言葉ってこと?」
「ええ。それが、あなたの安心に繋がるなら。」

 少し考えて、彼女はまるで花が咲くように、ふっと笑った。胸の奥で温かいものが広がっていく。

「じゃあ……あなたが私に“ダニエルズ”って呼びかけたとき、私は返すの。“私は、あなたの声がすき”って」

 ウォルターの目が、ゆっくりと瞬いた。
 それは、彼が感情のようなものを咀嚼するための、静かな時間だった。心の中で何かが静かに結晶化していくまでの、そんな間。

「光栄です」
 
 その言葉は、いつもの彼の声で、けれど少しだけ柔らかかった。船内の静寂をやさしく包み込む、夜の子守唄のように。
 ダニエルズは、そっと目を閉じた。その声を、心の奥深くに沈めるために。大切な宝物を胸の奥に仕舞い込むために。

「ねえ、もう一回、呼んでくれない?」
「ダニエルズ」
「……私は、あなたの声がすき」

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