船の朝は、まるで深い海の底のような静寂に包まれている。
地球のような朝焼けも、小鳥たちの囀りもない代わりに、起床時間になると淡い照明がゆっくりと、花開くように明るさを増していく。
冷たい金属の壁面にも、そのやわらかな光がかすかなぬくもりを宿らせて、無機質な空間に生命の息遣いを吹き込んでいく。
ダニエルズが瞼を開けると、鼻先にはもうコーヒーの香りが漂っていた。
もちろん、本物ではない。合成された香気分子が空気中に散布されているだけ。
それでも不思議と、確かに"朝の匂い"がする。記憶の奥底に眠る、懐かしい地球の朝を思い出させる、そんな香り。
「もう起きてたのね」
寝ぼけ眼で呟くと、すぐそばから穏やかな声が返ってきた。
「ええ。おはようございます、ダニエルズ」
その声とともに、ウォルターが水の流れのような滑らかな動きで立ち上がる。
彼の身体には、人間らしからぬ優雅さと、どこか初々しい丁寧さが同居していた。
そして驚いたことに、エプロンを身に着けている。しかも、きちんと前でリボン結びにして。その几帳面さが、なんとも微笑ましい。
「今日は、トーストとスクランブルエッグを試作してみました。再現率は89パーセントです」
彼の口調は、まるで研究報告をするような真面目さに満ちている。
「高いようで、ちょっと不安になる数字ね」
ダニエルズは苦笑いを浮かべながら、短い髪を指先で整えた。
「ですが、今朝の目標は"あなたが食べて笑うこと"ですので。味は二の次です」
そう言って、ウォルターは丁寧にテーブルに皿を並べてくれる。
きつね色に焼けたパンには、合成バターが溶けかけてつやつやと光っている。隣に添えられたスクランブルエッグは、ふんわりと柔らかそうで、湯気がほんのりと立ち上っていた。
どちらも"見た目"は完璧だった。料理雑誌から飛び出してきたのではないかと思うほどの、絵に描いたような美しさ。
ダニエルズは椅子に腰を下ろしながら、彼の一挙手一投足を見つめていた。完璧なはずの動作の中に、ほんの少しだけ"人間的なぎこちなさ"が混ざっている。
それは意図的なものなのか、それとも彼なりの成長なのか。完璧であることが、かえって愛おしく思えるほどに。
「ねえ、あなたは……食べたくなったりしないの?」
そんな素朴な疑問を口にすると、ウォルターは少し首を傾げた。その仕草は、人間が深く考え込む時のそれとよく似ている。
彼がそう"選んで"表現していることを、ダニエルズは知っている。
「私の設計には、"味"という概念がありません。ただ……」
「ただ?」
「あなたが、味の話をするとき。表情が変わります。声の高さが変わる。そして、思い出すように笑う。その一連の現象が、私にとっての"味"に一番近いのかもしれません」
そう言って、ウォルターは少しだけ、口角を上げた。笑うという機能は、彼にとっていまだ難易度の高い動作だった。
でもその表情は、朝の光に照らされて、とてもあたたかい。
「それなら、今度、食感の話もしてあげる。"しゃくしゃく"とか、"もちもち"とか。擬音だらけできっと面白いわよ」
「理解に時間がかかりそうですが……あなたが話してくれるなら、聞きたいです」
スプーンがカップに触れて、軽やかな音が鳴る。
ダニエルズはその音が好きだった。人の暮らしを感じさせる、小さな生活音。宇宙の静寂の中で、確かに"生きている"ことを実感させてくれる音。
ちいさな一口を口に運んで、ほっと息をつく。卵の温かさが口の中に広がって、思わず頬が緩む。
「あ、スクランブルエッグ、けっこうおいしいかも。ちょっとしょっぱいけど」
「それは"味覚による喜び"ですか?」
ウォルターの青い瞳が、期待に満ちて輝いている。
「まあ、及第点ってところかな」
「喜ばしい」
ウォルターは実験成功を告げられた研究員のような面持ちで、そっとうなずいた。その表情があまりに真剣で、ダニエルズは思わず吹き出しそうになる。
そのとき、ドアがスッと開く音がした。それはあたかも影のように、音もなく。
「失礼。お食事中でしたか?」
現れたのは、やけに無音で歩く長身の男――デヴィッドだった。
手にはマグカップを持っている。その立ち姿は舞台俳優のように優雅で、同時に芝居がかっている。
「朝にふさわしいものを、と思いまして。ミルクティーにレモンを入れてみました。見てください。こうして……完全に分離しました」
カップを傾けると、見事に分かれた二層の液体がゆらりと揺れる。白濁したミルクと、浮かぶレモンの切れ端。
まるで宇宙と胃痛を同時に思い出させる見た目だった。科学実験の失敗作のような、不思議な美しさがある。
「……それ、飲めるの?」
ダニエルズは眉をひそめて尋ねた。
「私は消化機能がないので、評価できませんが。視覚的には面白いと思いませんか?」
デヴィッドは満足げに微笑んでいる。その笑顔はさながら、芸術作品を披露する芸術家だった。
ダニエルズは何も言わずに、ただコーヒーを一口。苦味が舌に広がって、現実に引き戻される。
ウォルターも無言で彼女のカップにミルクを足した。その気遣いが、なんだかとても嬉しい。
沈黙が流れる。それは決して気まずい沈黙ではなく、朝の静寂に溶け込むような、やさしい沈黙だった。
やがて、ふたりは同時に――少しだけ笑った。
「朝って、難しいわね」
「ええ。特に……訪問者がいると」
どちらも名指しはしなかった。でもその言葉には、共通の理解があった。
だがデヴィッドは満足げに、マグカップを掲げて去っていった。その背中に、嵐が過ぎ去った後のような不思議な余韻を残して。
こうして今日もまた、ふたりの、なんでもない朝が始まる。宇宙の片隅で、小さな幸せを積み重ねるように。
89パーセントの朝食
