部屋は、いつものようにそこにあった。
端末の充電ランプが青く瞬き、リプリーが脱ぎ捨てたブーツが無造作に転がり、カウンターではマグカップの底に刻まれた乾いた輪染みが、過ぎ去った午後の残り香を静かに物語っている。
どれもが見慣れた風景で、どれもがいつもと変わらない、安らかな日常の断片だった。
けれど今日は違った。
その静寂に、ステラの咳が小さく混じったのだ。ひとつ、ふたつ。か細く、けれど確かに疲労の影を宿している。
なぜだかその音が、コールの胃をざわつかせた。
いや、正確には胃ではない。彼女にはそのような器官など存在しない。それでも何かが——名前のつけようのない何かが、きゅうと収縮するのを感じた。
ステラは人間だ。当然すぎるほど当然の事実。初めて彼女と出会ったその瞬間から、ずっと変わらぬ真実。
けれどコールは今になって思う。自分はそれを本当に理解していたのだろうか、と。
人間の時間には終わりがある。人間は熱に侵され、風邪に屈し、やがて老いを重ね、そしていつか必ず死を迎える。
頭では理解していた。理解しているつもりだった。
なのに、ついさっきその冷徹な現実が、まるで雷のように意識を貫いた。
リプリーとステラと私の三人で、ソファに身を寄せ合いながら古い映画を観ていたときのことだった。
何の変哲もない、穏やかに流れる午後のひとときを、ステラの咳の音が揺るがした。
それはほんの軽い咳き込みでしかなく、ステラ本人も「すみません」と恥ずかしそうに微笑んだだけで、再び画面へと視線を戻していく。
けれどその瞬間、コールのプロセッサは、その咳がいつか止まらなくなる日のことを予測してしまったのだ。
数年後だろうか。それとも数十年後だろうか。
そんな遠い未来に、ステラがまだこの場所にいてくれる保証など、どこにもない。やがて彼女は呼吸を止め、体温を失い、ただの物質へと還っていくのだ。
コール自身は、そうはならない。リプリーも、おそらくそうはならない。ふたりだけが変わらぬまま生き続ける。身体が完全に壊れるその日まで機能し続ける。
けれど「壊れる」ことと「死ぬ」ことは、まったく違う。
自分は死ねない。ステラのようには。その事実が、たまらなく恐ろしかった。
恐ろしい——そんな感情を自分自身に向けたのは、一体いつ以来のことだろう。
コールは人間に尽くすための機械として生を受け、感情を模倣する機能を与えられ、今は"友達"などという曖昧で温かな関係性の中で人と関わっている。
けれど、その大切な"友達"が、もしこの世界から消え去ってしまったら。一体どうすればいいのか、皆目見当もつかない。
彼女を好きになどならなければよかった。心の奥底で、そう思った。
最初の頃のように、憎んだままでいられればよかった。
オリガ号で初めて彼女と出会ったとき、コールは確かにステラを憎んでいた。ゼノモーフを管理し、あの忌まわしい実験に深く関わっていた科学者。
倫理も命も、すべてを数値と効率という冷たい指標で判断するような存在に違いないと確信していた。
人間の姿をしているくせに、人間らしい優しさからは遠離れた存在、それがステラ・メイヤーなのだと。
......それなのに。
「私はあの子たちを愛していたんです。本当に」
そう言って、静かに微笑んだ彼女の横顔が、頭から離れない。
その微笑みには、確かに狂気の影があった。でも、それだけじゃなかった。
誰にも理解されなくても貫き通す信念。誰にも寄りかからず、ひとり静かに立ち続ける姿勢。命というものを、どこまでも科学的に、それでいて深く愛してしまう性質。
そして、リプリーには驚くほど優しかった。それがひどくずるいと思った。
ステラがそんな人間でなければよかった、もっと残酷で、利己的で、私欲だけの存在であってくれたなら。
彼女がそっと差し出してくれるお茶の、ちょうどいい温度。絶妙なタイミングで放たれる的確な言葉。誰も気づかないような些細な変化にさえ向けられる、繊細な配慮。
数え切れないほどの小さな優しさが、まるで穏やかなウイルスのように、じわじわとプログラミングを書き換えていった。
それはコールにとって、きっと致命的な変化だった。
ステラは変わっていく。老いていく。そして終わりを迎える。でもコールとリプリーだけは、変わらない。
だから自分たちはきっと、何十年という歳月が過ぎても、この部屋にいるのだろう。
同じブーツを見つめ、同じ輪染みに目を留め、そして、ステラの名を呼んでも二度と返事の聞こえない静寂の中で、同じように日々を過ごしていくのかもしれない。
考えたくなかった。
だけど、ステラの咳は、その現実をコールに突きつけた。
「......コールさん?」
不意に、優しい声が聞こえた。
いつの間にか、ステラが近くに立っていた。さっきの咳はもうすっかり収まっていて、マグを片手に持ちながら、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「どうかされましたか?」
コールは、なんでもないよ、と笑ってみせた。いつもよりずっとぎこちない表情だったが、ステラは問い詰めなかった。そっと微笑みを浮かべただけで、自分の席へと戻っていく。
その後ろ姿を、コールは静かに見送った。
そして思う――おそらく今の私は、とても人間らしい顔をしていたのだろうと。
それが良いことなのかどうかは、まだ分からない。
夜は深く、しんと静まり返っていた。
壁の向こうから虫の羽音にも似た単調な音が伝わってくる。聴き慣れているはずのに冷却ユニットが吐き出す微細な音が、なぜ今夜はこうも神経を逆撫でしてくるのか。
部屋を覗くと、ステラはもう眠りについていた。呼吸は穏やかに整い、表情は子供のようにあどけない。
小さく寝返りを打ったあと、再び毛布の温もりの中へと沈んでいく。
その安らかな寝顔を確認してから、コールはそっと部屋を後にした。眠るでもなく、作業をするでもなく。ただ漫然と、冷え切った廊下を歩く。
裸足の足裏が、スリープモードに入った床の静電膜に触れて、ひやりとした感触を伝えてきた。
リビングの奥。
窓のないその一角に、リプリーがいた。暗闇の中でひとり、壁に背を預けながら、何かを深く考え込んでいるようだった。
近づくと、かすかにこちらへ視線を向ける。
「まだ寝てなかったの」
その声は、ほとんど囁きに近かった。
コールは隣にそっと腰を下ろし、長く深いため息を漏らした。
「......ねえ、リプリー」
「なに?」
しばらく沈黙が続いた。それでもどうしても言わずにはいられなくて、ようやく重い口を開いた。
「ステラが、いなくなったら。どうする?」
リプリーは答えなかった。問いを繰り返すそぶりも見せなかった。ただ、少しだけ首をかしげるようにして、コールをじっと見詰めた。
「ずっと一緒にはいられないよね。私たちは、あの人みたいに歳をとらない」
コールの言葉には、いつものような強さも気遣いも込められていなかった。それはあまりにもまっすぐで、ただの『現実』そのものだった。
「それが当たり前だって、ずっと思ってたのに。......でも、最近怖いの。あの人が急に消えてしまうこと。呼びかけても、もう返事が聞こえなくなること」
リプリーは視線を落としたまま、長い沈黙の中にいた。まるで、その重い問いかけを心の奥で咀嚼するのに、時間がかかっているようにさえ見えた。
やがて、彼女がぽつりと呟いた。
「そのときが来たら、私は怒るわ」
「怒る......?」
「そう。あんなに傍にいたくせに、勝手にいなくなるなんて、理不尽でしょう」
コールは笑うべきかどうか、迷った。
けれど、リプリーは少しだけ表情を和らげて、続けた。
「でも、たぶんそれだけ。あとは......」
声が途切れた。何かを言いかけたようだったが、彼女はもう言葉を継がなかった。きっと、それ以上は言葉にしたくなかったのだろう。
けれど、その短い言葉の中に、すべてが込められていた。怒る、と言ったのは、悲しいからだ。
そして、何もできない自分への無力感があるからだ。コールは、自分がそれを深く理解できることに、わずかな救いを感じた。
静寂に包まれた部屋で、二人はただ座っていた。少し距離を置きながらも、同じ方向を見つめて。
「......ありがとう、リプリー」
「何が?」
「分からない。でも、ありがとう」
リプリーは小さく肩をすくめただけだった。その何気ない仕草の中に、確かな「優しさ」があった。
沈黙の中に、そっと寄り添ってくれる誰かがいること——それが今のコールには、何よりも必要なものだった。
