彼女と骨の奥の名

 目を開けると、世界が白かった。
 乳白色の靄に包まれた室内。すべての輪郭が柔らかく滲み、まるで深海の底に沈んだ病棟のようだ。
 壁は見慣れたオリガ号の観察室に似ているが、決定的に何かが違っていた。反転した鏡像の中に迷い込んだかのような、静かな狂気がじんわりと染み出している。

 足元の金属板は微かに光を反射し、ステラが一歩踏み出すたびに、その影すら不明瞭になる。
 空気はひどく乾燥しているのに、金属とも薬品ともつかない匂いが、鼻の奥にぴたりと張りついた。喉の奥がざらつき、痺れを伴う不快感が残る。
 正面の分厚い強化ガラスの向こうに――彼女がいた。

 リプリー。

 天井は遥か上にありながら光源は見当たらず、部屋はどこからともなく注ぐ乳白色の光に照らされていた。規則的に明滅するそれが、リプリーの輪郭を淡く浮かび上がらせる。
 彼女は艶のない黒い影のような姿で、髪を肩に垂らし、黙ってこちらを見つめていた。
 動きも言葉もないのに、その存在だけで、空気が飽和する。重たく、湿った見えない膜となって、肌の上から神経の奥まで覆いかぶさってくる。
「やっと起きたの?」
 その声が届いた瞬間、部屋の温度が一段下がった気がした。
 リプリーは微笑んでいた。唇の端だけがわずかに持ち上がる。その眼差しは冷たく、甘やかで、猛毒を染み込ませた蜂蜜のごとく。
「面白いわね。夢なのに、あなたの匂いがちゃんとする」
 彼女は静かに歩み寄る。足音はしないのに、その足取りだけがやけに重たく、夢の床に吸いついている。
 ガラスの向こうにいるはずなのに、肌にまとわりつくほど濃密な気配が迫ってくる。幽霊が皮膚の上を這うような錯覚に、背筋が強ばる。
「……ここは、観察室……?」
 問いかける声に、リプリーはゆっくり首を振った。
「違うわ。ここは、あなたの牢獄。でもね――私のためだけのもの」

 ステラは唇を引き結び、ガラスに手を当てた。
 開かない。反応がない。操作盤も、鍵穴も、インターフェースも存在しない。ただの壁。夢でなければ説明がつかない。それでも、目覚める気配はどこにもなかった。
 リプリーの指先が、ガラスをなぞる。蛇が餌の周囲を滑るときのような、計算された動きだった。
 やがて、掌をべたりと押しつけてくる。その向こうにステラの頬があった。
 直接神経を触れられたかのような錯覚に身体がざわつく。皮膚の内側で、冷たい汗が背を伝った。
「匂いでわかるの。あなたの内部まで」
 リプリーの声は、湿った獣の息吹にも似て熱く、耳の奥を這う。
「……なんの話をしてるんですか」
「嗅ぐことは観察でもあるし――所有の証でもある。動物の世界では、そうでしょう?」
「リプリーさん……」
「ここでは無駄よ。あなたの意識の中に私がいる。つまり、私はもうあなたの中にいるの」
 少しも話が通じない。ステラの無表情の仮面が崩れはじめる。
 夢なのだと何度思い直しても、感覚は現実と地続きだった。声も、視線も、思考の奥まで浸食してくる。

「ステラ。逃げないで。ここでは、私たちだけ」
 ガラスにひびが走った。
 クモの巣状の線が視界を分断し、向こうでリプリーが静かに笑った。
 指先がそのひびをなぞる。
 触れたガラスの表面が、まるで神経でできているかのように、ステラの背をぞわりと這い上がる。
「あなたの夢は誠実ね。何も隠せていない」
 低く甘やかな囁きが、鼓膜の内側から響いてくる。
「こんなふうに私を見上げて。震えながら、目をそらさないなんて……。本当はここから出たくないんでしょう?」
 何もないはずの頬に、指の温もりを感じた気がした。
 その感触はあまりにも確かで、意識の触手が心の奥にからみついてくる。
「ずっと望んでたんじゃない? 誰かに見つけてほしくて。皮膚も、名前も剥ぎ取られて……骨の奥にあるあなたに触れてくれる誰かを」
 リプリーの笑みは、猛禽がくちばしの端を緩めるときのようだった。
 慈しみと嗜虐が、ほとんど区別なく混ざりあっていた。
「可哀想に。誰もそれを知らなかった。でも――私は知ってる」

 ガラスのひびが、音もなく拡がる。
 その瞬間、ステラは理解する。
 割れていたのはガラスではない。自分自身の内側だ。
 膝が崩れ、床に落ちる。
 そのままの姿勢で、ガラス越しのリプリーと対峙する。まるで献身か、降伏か、あるいは祈りのように。

 リプリーの目が、ゆっくりと細まる。その視線はステラの体温の変化まで正確に読み取っている。
「誰にも触れられたことがない皮膚を、私は知りたい」
 囁く声が、薄い膜のように鼓膜を包む。
「喉、鎖骨、肋骨の浮き――全部。あなたの匂いを吸って、爪で刻みたい。残るように。あなた自身より深く、あなたの内部に」
 ステラは息をのんだ。
 言葉の一つひとつが、皮膚の裏側に焼きつけられる痛みと快楽をともなって響いてくる。
 それがなぜか――恐ろしく心地よかった。
 リプリーの気配が、脳の奥へと染みこんでいく。身体の外からではなく、意識の深部から触れられている感覚。
「そうしてほしい?」
 問いかけは、甘く、ゆるやかで、それでいて致命的だった。

「私は……」
 喉が震える。だが、否定の言葉は出てこなかった。
「ステラ」
 名を呼ぶ声が、もう一度届く。
 リプリーはガラスに額を押し当てていた。まるで夢ごと、境界を喰い破る準備をしているかのように。
「壊すのは簡単。でも、私は時間をかけたい。少しずつ腐蝕して、あなた自身が自分を手放すように導くの。ねえ、それって――ほら、あなたの専門分野でしょ? 動物の行動って、だいたい支配か、服従か、どちらかだもの」
 ステラはいつのまにか自分の喉元を押さえていた。
 その手のひらに、鼓動がひどく鋭く響いていた。

 ガラスのひびは、やがて音もなく崩れ落ちた。破片のひとつも、飛び散らなかった。
 ――最初から、何もなかったみたいに。
 ステラは床に膝をついたまま動けずにいた。それはさながら、開かれた檻のなかの獣。呼吸を潜めるしかできない。
 リプリーがそこにいた。足音もなく、猫のように近づいてくる。
「ほら、やっぱり。逃げないのね」
 囁きながら、彼女はゆっくりと屈みこみ、ステラと視線を合わせた。
「お腹を見せてる。獣は服従するとき、そうするのよ。でもあなた――嘘は下手ね。震えてるのに、瞳孔は開いてる」
 リプリーの手が、ステラの顎に触れる。
 人間の手に似ているのに、どこか違う。関節の可動域がほんの少しだけ広すぎて、柔らかいはずの掌が、どこか硬質。
「生殖とは、支配と侵蝕。感情とは、分泌物。でもこれは科学じゃない。あなたの中の、もっと古い本能が――」
 その指が、喉元をなぞる。ステラの心臓が、それに呼応して跳ね上がる。
「……私に、咬まれたい?」
 言葉は儀式のようだった。残酷と慈しみが、同じ重さで宿っていた。

 指先が、ステラの鎖骨をなぞる。
「本当はここに、私の匂いをつけたいの。じっくり、時間をかけて、汗と呼気と……その先のものまで混ぜて。そうすれば、あなたはもう――どこへも行けなくなる」
 それは脅しではなかった。
 夜泣きする子を抱くような、静かで、絶対的な宣告。
 ステラの指が、無意識にリプリーの手首を掴んでいた。拒絶のつもりだったかもしれない。だがその手は、引き寄せているように見えた。
「リプリーさん」
「ステラ、あなたはね……怖がりのふりが、もう下手になってきてる。ここでは、ぜんぶ見えてる。匂いでわかる。あなたの考えてること、まだ言葉にしてない欲望まで」
「……リプリー、さん」
 ステラがリプリーの首に腕を回すと、リプリーもそれに応じて、彼女の腰を抱いた。
 強い。
 優しさと、壊す力が、同じ腕の中に宿っていた。

「ちゃんと飼ってあげるわ。その代わり、あなたの中に私を棲まわせて」
 その言葉に、ステラはなぜか涙がこぼれた。
「……大丈夫ですよ。大丈夫」
 リプリーを強く抱きしめ返したまま、意味もわからないのにそう口にしていた。呼吸のたびに、肺の内側にリプリーの匂いが染みつく。
 甘いようで、鉄のようで、植物の根を掘り返したあとの匂いのようでもある。

 ステラは目を閉じた。夢の終わりが、どこにあるのか。
 もう、知る必要を感じていなかった。

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