研究フロアの奥、使い込まれた実験室は今日も静かだった。
壁掛けモニターにはログが淡々と流れ、培養槽の温度は一定を保ち、機器の小さな動作音だけが時折、空間の密度を撫でていく。
空調の送風口からは、一定のリズムで冷気が滑り出ていた。温度そのものは設定通りだが、長時間座っていると足元から体温がじわじわと奪われていく。
そんな空気の中、沈黙をふいに破ったのは、相変わらず調子の読めない柔らかい声だった。
「エビって、ゴキブリに似てますよね」
ジョナサン・ゲディマン博士は、使用中のデータスキャンを中断して顔を上げた。
精密機材に囲まれた狭い卓の向こう、ステラ・メイヤー博士が顕微鏡のレンズを覗き込んでいる。彼女はそのままの姿勢で言葉を続けた。
「世間では“海のゴキブリ”って呼ばれてますけど、逆もまた然りだと思うんです」
まるで今日のランチの話題でも語るかのような平熱の声だった。あるいはコーヒーを片手に「今日はちょっと冷えますね」と言いながら暖房の話をする、そんな調子。
しかし口にしているのは、あまりにも予想の斜め上をいく昆虫談義だった。
「……逆?」
まるで使い慣れたオペレーション用語に妙な意味を付加されたかのような違和感。彼の眉間に、疲労由来の皺が深まっていく。
そんなことにはおかまいなしに、若き部下は微かに頭を動かした。編み込んだ髪を留めたヘアピンが、天井パネルの照明を弾き返す。
「つまり、ゴキブリは“家のエビ”なんですよね」
ゲディマンはその場で硬直した。動きかけていた手は宙に浮き、数秒かけてそっとキーボードから引いた。彼女の表情を確認するために、思わず体を乗り出す。
……冗談か? いや、真面目な顔だ。真顔も真顔、あまりに真剣で、重力異常の数式を解いている最中とまるで同じ空気をまとっている。
ゲディマンの脳内では、即座に幾つもの反論が構築されては崩れた。節足動物の分類学的な系統の違い、形態進化における分岐点、社会的忌避感情と食文化の断絶、そもそも“似ている”という認識の認知心理学的誤謬……が、彼は口を開かなかった。
この女を論破しても無意味だと、何度も経験していたからだ。
「……そうだな」
だから、ため息混じりに首を縦に振るしかなかった。
ステラはやっと顔を上げ、そのまま椅子の背にもたれる。いつも通りしゃんと背筋を伸ばしたままの、どこか誇らしげな様子ですらあった。
「分類学的には違うんですけど、見た目の印象というのは、しばしば分類よりも記憶に強く残りますから。こう、ぱっと動いたときの脚の動きとか……あと、触角の感じ……」
言葉に力がこもるたびに、手元でなにかをなぞるように指がわずかに動く。その仕草はあまりにも自然体で、あまりにも研究者だった。
内容は妙なのに、語り口が妙に論理的で整っているのが、またややこしい。
ゲディマンは無言で天井を仰いだ。照明の白い光が酷使された眼球にじわじわと染みて、瞼の裏に鈍い痺れが広がっていく。
「メイヤー」
「はい?」
呼ばれてすぐに反応する声は、けれど何かを反省する色合いはまるで含んでいなかった。純粋に「はい?」である。
「頼むからその話はおしまいにしてくれ」
その声は懇願にも似ていたが、どこか悟ったような響きもあった。相手がステラである限り、決して答えはひとつには絞れない——そういう諦観と、それでもやはり上司としての矜持の名残。
部下の博士は小さく笑ったかと思うと、また顕微鏡に視線を戻していく。話は切れたが、何か別の、さらに妙な発想が生まれつつある気配がした。
ゲディマンは背もたれに深く体を預け、長い息を吐いた。休まる暇は、まだ先になりそうだった。
小ネタ-家のエビ
