助手と技師と、宇宙アリ

 ことの発端は、廊下の床にぽつんといた「それ」だった。
「……アリ、ですよね?」
 ステラの声に、隣のコールが静かに頷きを返す。
 ここはオリガ号の下層区画。物資搬入ルートの外れ、普段は人の足音さえ稀な静寂の通路。
 そんな場所の床に、黒い点がうずくまっている。体長は2cm近くとアリにしては大きめで、濡れたようなツヤを帯びた外骨格が、どことなくゼノモーフを思わせる。
 それが確かに生きていて、しかも律儀に動いている――ただそれだけのことが、船内の平穏を密やかに揺るがしていた。
「でも……どうしてアリがここに?」
 アンドロイドが端正な顔をしかめながら疑問を口にする。内心の困惑が、そのまま声の調子に現れていた。
「密航ですかね。貨物パッケージにまぎれこんでたとか」
「あるいは……誰かが故意に持ち込んだ?」
「そうじゃないといいですね。ややこしくなりますから」
 そう言いながら、ステラはすっと腰を落とした。手にはいつものマイクロスコープ付き端末。すでに“研究モード”に入っている。
 「……この形状、地球種ですね。アフリカ原産のテラノミルメクス属に酷似。でも、それにしては節の数が……あ、コールさん、見ます?」
「いや、近くで見るのはちょっと」
「虫は苦手ですか?」
「別に……好きじゃないだけ」
「かわいいですよ?」
「メイヤーのそういう感性、ほんと理解できない」
 コールは白衣の背中に半ば呆れたような視線を送りながら、恐る恐る足元を見下ろす。
 アリは壁沿いをのそのそと、それでも確かな意志を持って前進していた。まるで自分だけの使命を背負っているかのように。
 しばらく沈黙が降りたあと、ステラがゆっくりと顔を上げる。
「どうしましょう? このまま逃がすか、駆除するか」
「えっ、わたしが決めるの……?」
「一緒に見つけた“共犯者”ですから」
 そのとき、背後でカツン、とブーツの音が鳴った。
 二人同時に振り返る。現れたのはリプリーだった。レザーのベストとパンツに身を包み、ゼノモーフを彷彿とさせる長身のシルエットを、そのまま通路に切り立たせている。
 肌にはうっすらと汗の光沢。きっと、またバスケットボールでもしていたのだろう。彼女の顔に表情はなく、かろうじて片眉を少しだけ上げていた。
「何してるの、あなたたち」
 その視線は、ふたりの顔からまっすぐアリへと向けられる。無言の圧迫感が、じわじわと空気を重くしていく。
「あ、ええと……」
「見つけたんです。アリ」
 口ごもったコールの代わりに、ステラが淡々と応じた。リプリーはしばらく無言のまま、目だけで状況を読み取っていく。
「そう。で、二人がかりでアリ一匹に膠着状態?」
 コールの頬が一瞬で朱に染まる。
「ちが……ちがう! その、あの、これは危険かもしれなくて、船内のセキュリティ的にも――」
「ええ、そうね。そのサイズなら相当手強いわ」
 リプリーの口元に、わずかに皮肉っぽい笑みが浮かぶ。からかっているのは明白だったが、その声音は不思議とやさしい。
 ステラがふっと微笑む。
「では、判断をリプリーさんに委ねましょうか。処置をどうするか」
「私に?」
「“アリ対応オペレーション主任”として」
「ありがたい昇進だこと」
 リプリーは一歩前へ踏み出すと、じっとアリの動きを見つめた。そして何も言わず、ステラに向かって手のひらを差し出した。
 ステラは一瞬だけきょとんとしたが、すぐに心得たようにうなずくと、白衣のポケットから小さな採取容器を取り出して渡す。
 リプリーはその容器を使い、驚くほどスムーズな手つきでアリをすくい上げる。動きに一切の無駄がない、まるで熟練の外科医のような精密さだった。
 捕獲されたアリの入った容器をステラに返しながら、小首をかしげる。
「これで満足?」
「助かります」
 ステラが静かに頭を下げると、リプリーは小さく肩をすくめた。
「ゼノモーフよりアリのほうが怖いなんて、どうかしてるわね」
「怖くないってば……!」
 ようやく出たコールの反論に、リプリーは何も言わず、ただ口角をわずかに上げるだけだった。
 そのまま通路の奥へと歩き出していく。二人は並んで、その凛とした背中をじっと見送った。
「生態系ピラミッドの頂点って感じですね」
「頂点がアリを手で救出する絵面、けっこう貴重かもしれない」
「……まあ、結局解剖されるんですけどね。というか、私がします。このあと」
「えっ……⁉」
「弱肉強食ですねー」
 そう言って、ステラは小瓶を照明の下にかざした。容器の中、アリはまだせっせと歩いていた。

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