人工照明の落ち着いた明かりの下で、古びた医務室に控えめなノック音が響いた。
「お待たせしました」
スライド式のドアが音もなく開き、ステラがそっと顔を覗かせた。
手にしているのは、インターフェース付きの多機能スキャナー。生体用の診断機器を一部改造した、コールのような合成人間にも対応できる汎用ツールだった。
部屋の奥では、コールが診察台に腰を下ろしていた。
背筋を伸ばしきれず、どこか所在なげに肩をすくめている様子は、まるで健康診断を待つ子どものようだった。
癖毛の黒髪はいつもよりいっそうくしゃくしゃで、それだけで普段よりも少し頼りなく見えた。
「ごめんなさい。呼び出すほどのことじゃなかったんだけど……その、身体の中が少し……おかしい気がして」
声の調子は抑えめで、言葉を探しながら口にしている。
ステラは歩み寄りながら、スキャナーの電源を入れ、コールの手元へとやさしくかざした。
「“おかしい”というのは、具体的にどういった?」
問いかける声はいつも通り落ち着いていたが、そのトーンの奥に、ごく薄く心配の色がにじむ。慎重すぎる手つきが、少し不自然なほどだった。
「寒気……みたいなもの。喉が変で、息を吸うと少し熱っぽい気がする。それと、関節のあたりに……痛みのシミュレーションが走ってるみたい」
「それは……“風邪の初期症状”ですね」
ステラが端末の表示を確認しながら答えると、コールはわずかに頬を染めたように見えた。
「ああ、やっぱり」
「と言うと?」
「“風邪”ってどんなものなのか興味があって。少し前に人間の記録からシミュレーションモジュールを導入したことがあるんだけど、たぶん、それがバグを起こしたんだと思う」
声の調子は軽く冗談めいていたが、その瞳の奥には、ごくわずかな不安がにじんでいた。
体調の異常という“未知”に対して、コールはやはり人間よりも敏感なのかもしれない。
“風邪”を体験したい――コールなら確かに実行に移してしまいそうだと、ステラは内心で苦笑する。
「好奇心と予測と実験は科学の基本ですから。コールさん、科学者の素質ありますよ」
そのとき、室内にもうひとつの声が重なった。
「ずいぶん奇特な趣味ね」
振り返ると、リプリーが開け放たれたドアの縁にもたれかかって立っていた。腕を組んだまま、壁の一部みたいに動かず、影のような存在感でこちらを見ている。
表情は読めない。けれど口元だけが、うっすらと笑っていた。
「“不完全でいたい”なんて思い始めると、戻れなくなる」
その静かな警告に、コールは観念したように息を吐く。
「……そうかも」
決まりの悪さと、わずかな苛立ち。どちらも彼女らしい誠実さの表れだった。
顔を上げた彼女が、その大きな瞳を再びステラに向ける。
「それで、メイヤー。これ、あなたならどうにかできる?」
「物理的な疾患じゃないので、システム的に遮断するか、再起動すれば症状は消えます。ただ……」
「ただ?」
「……熱っぽさを“感じる”ようにわざわざ設定しているということは、たぶん。誰かに“看病”されてみたかったんじゃないかと」
ステラはそう言って、そっとコールを見つめた。その目は詮索ではなく、ただ相手の心に触れたいという静かなまなざしだった。
コールは一瞬驚いたように目を見開き、すぐに視線を逸らした。
「ち、違う……と思うけど」
「可愛いこと言ってくれるじゃない」
くすくすと笑いながら、リプリーが歩み寄る。コールの隣に立つと、そっと肩に手を置き、指先を彼女の頬にすべらせた。
温度のない人工皮膚に、あたたかさを探すような優しい動きだった。
「じゃあ、今日は私たちが看病してあげる。贅沢ね、二人がかりなんて」
「それは……」
困ったように口を開きかけたコールの横で、リプリーがからかうように続けた。
「遠慮するくらいなら、最初からそんなバグ入れなきゃよかったのに」
リプリーが皮肉めいて言う隣で、ステラが場をとりなすように両手を振った。
「ほら、コールさんって普段あまり人に頼らないから。いい機会ってことにしておきましょう」
その言葉に、コールは小さく俯いて――けれど、すぐに静かに笑った。
どこか照れくさそうな、でも、あたたかくて優しい笑顔。それはまるで、ほんの少しだけ人間に近づいた証のように見えた。
――彼女が“風邪”をひいた夜の、静かでやさしい出来事だった。
助手とふたりと微熱バグ
