長期留学で訪れたイタリア。そこで初めてできた友達は、アンジェリーナ・バルガスという少し風変わりな女性記者だった。
彼女はまさにラテン美女そのもの。日焼けした肌に艶やかな黒髪、深い茶色の瞳……背丈は平均的だが、漂う凛とした佇まいのためか、妙に惹きつけられる存在感がある女性だった。
彼女は私よりひとつ年上で、イタリア人らしい情熱を秘めつつも落ち着いた性格をしていた。さらに英語も流暢だったため、異国の地で不安に震える私にとっては、まるで灯台のような存在だった。
しかも後からわかったことだが、アンジェリーナの家は私のステイ先のすぐ近所だった。
そうそう、“風変わり”というのは、彼女が執筆している記事のこと。
アンジェリーナは悪魔憑きやエクソシストを専門に取材している。バチカンのすぐ近くに暮らす彼女にとって、それらの話題は日常の一部なのだろう。
そんな彼女から「東洋の視点を借りたい」と頼まれ、今夜、私は彼女のアパートを訪ねているわけで……。
「日本では悪魔憑きってどう扱われてる? エクソシストっているの?」
アンジェリーナは重そうな本のページを指で押さえ、興味津々にそう訊いてきた。
時計の針は11時半を回っている。遠視用の眼鏡を外してマグカップを口に運ぶ彼女顔に、まだ疲れは見られない。むしろ、知的な輝きがあった。
「悪魔憑きねぇ」
私の声は少し曖昧だった。
「その顔。何か言いたそう」
「でも参考になりそうにないし。嫌な感じに聞こえたらヤだなって」
「そんな風には受け取らないって約束する。私は率直な観点を知りたいんだから」
「そう? じゃあ……」
私も自分のカップを傾ける。ショウガ入りのホットワインはまだ暖かい。
「そういうのは、映画とか漫画とかの世界の存在って感じがする」
小首を傾げたアンジェリーナが静かに続きをうながす。
「そもそも悪魔って言葉を耳にする機会があんまりないかも。っていうか多分、日本にはいないと思う」
「入国拒否されちゃうとか?」
「悪魔っていう概念自体がさ、まず西洋文化特有のものじゃない?」
「悪魔に相当する存在はあるはずよ」
「そうだね、近いのは――」
言葉を探した末に「鬼」だと言いかけて、はたと困る。英語で“鬼”を説明するのはちょっと難しい。
続きを待ちわびる視線を浴びながら「ぴったりくる英語はないけど」と前置きした上で、demonだと説明しておいた。
「それか妖怪か幽霊が近いかな?」
一応、そう補足しておく。するとアンジェリーナはペン先でマグカップのふちをコツコツ叩きながら、眉を寄せて苦笑した。
「幽霊ね。存在自体は理解できるけど……私にとっては逆に実感が薄くて」
「あ、じゃあ今から観る?」
「なにを?」
「映画」
日本人の悪霊観を理解してもらうにはもってこいの適材がある。
映画が終わっても、アンジェリーナは無言のままだった。
グラスの中の水をひと口だけ飲む。その動きは、平静そのものに見える——けれど、あまりに無駄がなさすぎて逆にわざとらしい。
「日本のホラーは初めてだっけ? 感想は?」
私が軽く問うと、彼女はほんの一瞬こちらを見て、すぐ目を逸らしながら答えた。
「よくできてる。……理屈じゃ説明できないところが特に」
声は平静だったが、視線がやけに壁の角や、隣り合う寝室の暗がりに吸い寄せられている。
私はソファに体を預けながら笑う。
「怖かった?」
「まさか。あれはフィクションでしょ」
「うん。でも、フィクションが現実を侵食してくることもあるよ」
アンジェリーナは少し眉をひそめたが、言い返しはしなかった。そのかわりエンドロールの終わったノートパソコンを素早くたたむ。まるで幽霊を封じ込めようとするみたいに。そんな自分を恥じるような表情が面白くって可愛らしい。
1時間前までの威勢はどこへやら。アンジェリーナはすっかりしおらしくなってしまって、私の肩に自分の肩を押し当ててくる。もたれかかる重さが愛しい。
「平気平気、貞子もイタリアまでは来ないよ。ねえアンジェリーナ、悪魔はいいのに幽霊は怖いってどういうこと?」
そのまま沈黙が落ち、私はグラスの水を飲み干した。本当はワインがもう一杯ほしいけど、明日も……というか今日も仕事だから、やめた方がよさそう。
アンジェリーナも自分のグラスに手を伸ばしたが、グラスの水滴を拭っただけで、再び手を引っ込めた。やがて彼女が自嘲的につぶやく。
「悪魔だって恐ろしいと思ってるわ」
彼女は手が届かない場所にノートパソコンを押しやると、もう何も言わないでとばかりに首を横に振った。その心の内で渦巻く葛藤と悔恨が、少し理解できる気がする。彼女の過去の断片を知っているから。
アンジェリーナの視線が壁の時計に向けられる。
「……もう遅い時間ね」
ただの事実のように口にされたその言葉。可愛いアンジェリーナ。私は彼女の本心に気づかないふりをして、冗談で応酬する。
「そうだね。もう終電もないし」
「歩いて五分でしょ」
「途中で貞子に呼び止められるかも」
「それは、あなたの責任」
彼女は口元にだけ小さな笑みを浮かべたが、その目を見れば私を追い返すつもりがないことがわかる。
私は笑いながらソファの背もたれに体を預ける。
「私はどこでも寝られるから。お気遣いなく」
アンジェリーナも笑って立ち上がり、散らかったテーブルを片付けもせずに寝室に向かう。開け放たれたままの入り口の前まで来ると一瞬緊張したように立ち止まり、意を決して照明スイッチを押した。
暖かな色合いの照明に照らされた、幽霊など現れそうもない寝室から、ハスキーな声だけが呼びかけてくる。
「ソファは、寝返り打つと落ちるわよ」
中に入ると、明かりのついたベッドサイドランプの下、アンジェリーナは既に片側の枕に背を預けていた。
もう眠る体勢だったけれど、目は閉じていない。
私は黙って隣に腰を下ろしながら言う。
「怖くないって言いながら、妙に静かだね」
「眠る準備をしてるだけ」
アンジェリーナは枕元の照明リモコンに手を伸ばす前、ちらとこちらを見る。早くベッドに入れという合図だ。私が彼女の隣に横たわると同時に天井の照明が消えた。だけど今夜は、ベッドサイドの薄灯りは残しておきたいらしい。
「おやすみ」
その言葉に、アンジェリーナの本心がどれほど含まれているかは、まだわからない。
でも、私はたしかにここにいる。自分から、ここを選んだ。
「おやすみ」
それからしばらくは、どちらも言葉を発さなかった。隣にいることを互いに意識しながらも、触れないように、音を立てないように。まるで眠りを装っているかのような静けさだった。
暖房の低い唸り、かすかな呼吸音、時折ベッドの軋む音。そんな何気ない音が、知らず知らずのうちに互いの存在を伝えていた。
「……寒くない?」
ふいに、隣から声がした。闇の中でこちらを向いているのかはわからない。でも声は、真っすぐだった。
「大丈夫。ちゃんと掛けてるし」
「そう」
それだけで、また静けさが戻る。けれど、さっきよりもずっと穏やかな沈黙だった。
私はふと、隣の気配に耳を澄ませる。寝返りの気配もなく、きちんとした姿勢のまま動かない彼女の存在は、かえって少しおかしかった。
「ねえアンジェリーナ、ちゃんと眠れてる?」
「今は、眠る努力をしてるところ」
「失礼。努力の邪魔をしたね」
「してない」
彼女の声に、わずかに笑みが混じっていた。それが安心だった。きっと彼女は、いまも怖がっているわけじゃない。ただ、自分の内側に沈殿した“何か”を、誰かと共にやり過ごしたいだけなのだ。
私は枕を少しだけ寄せた。触れはしないけれど、息づかいが届く程度の距離に。
「もし、夢に貞子が出てきたら」
「やめて」
「――って言うと思った」
そのあと、アンジェリーナは何も言わなかった。私も何も言わなかった。
でも少しして、ベッドの沈み方が変わった。彼女が、ほんの少しだけ体をこちらに向けたのだとわかる。言葉では何も頼まない。でも、そっとこちらに重心を移す。その仕草だけで、彼女がどれだけ私を信頼しているかが伝わってきた。
私は目を閉じて、ただ静かに息を合わせる。
この夜の静けさが、彼女にとってほんの少しの安堵になるようにと願いながら。
