眠りの淵へと沈んでいく瞬間、ダニエルズの心には必ず、あの懐かしい光のゆらめきが舞い戻ってくる。
地球の朝焼けが空を染める瞬間の、蜂蜜色に溶けた黄金の光。
ジェイコブの肩越しに見えた、小麦畑をそっと撫でていく風の軌跡。
頬を包み込む、春の温かい風の記憶。
それらはもう二度と触れることのできない、遥か彼方の世界の残像。それなのに、脳のどこか深い場所に刻まれた記憶の断片が、胸の奥に沈む未練と共に、まぶたの裏に鮮やかに浮かび上がってくる。
けれど今夜、その光景のなかには誰かの静かなまなざしがあった。
穏やかな光の向こうで、彼は黙ってこちらを見つめていた。音もなく、凍りついた時間のなかで。
その視線は何も語らずとも“ここにいる”と告げていた。まるで暖炉の火のぬくもりのように、星明りの静けさに包まれて。
それが、ウォルターだった。
目が覚めたとき、彼の視線の残像が、皮膚の奥にうすく張りついていた。
ダニエルズはゆっくりと上体を起こし、喉の奥からかすれる声で名を呼ぶ。
薄明かりが漂う部屋には、羽毛のような静寂が満ちていた。
「ウォルター……いる?」
「はい」
即座に答えが返る。声は部屋の片隅から聞こえてきた。
コンソールの脇に立っていた彼が、無音のまま近づいてくる。水面にそよぐ風を思わせる、なめらかな歩みだった。
「どうかされましたか?」
「夢の中に、あなたがいた」
ダニエルズの声には、まだ眠りの余韻が残っている。ウォルターは一瞬、瞳を細めるような仕草を見せた。
「……そうですね」
その答えに、ダニエルズはゆっくりとまばたきをした。
夢の中の暖かさがまだ胸の奥に残っているような気がして、不思議な感覚だった。
「"そう"って?」
「はい。夢に干渉する実験を、昨日から段階的に行っています」
ウォルターの声は、いつものように穏やかだった。
「あなたの睡眠中、深層記憶への接続を通じて、私の視覚フィードバックを挿入しました。副作用はないはずです」
「勝手なことを……」
そう続けようとした声が、ふっと空気に溶ける。
怒る理由が見当たらなかった。だって——あの夢が、あまりにも優しくて、心地よかったから。
「……ジェイコブの隣に、あなたがいたの」
こぼれそうな記憶をすくい上げようとして、ダニエルズは呟いた。
「彼の手の感触を思い出してた。でも、横顔を見たら、それがあなたに変わってた」
「記憶の置換が発生したのだと思われます」
ウォルターの声には、微かに困惑の色が混じっていた。
「あなたの心が、失われたものに代わる"像"を求めていた可能性があります」
「でもあなた、現実には触れられないでしょ。手も冷たいし、心臓もない。けど……あの夢の中では、ちゃんと"温かかった"」
その言葉に、ウォルターの視線が一瞬だけ揺れた。水面に落ちた雫のように。
彼の目に宿ったのは、わずかな迷い。
人工知能には不釣り合いなほど曖昧な感情だったが、それがかえって、彼が“製品”以上の存在であることを物語っていた。
「……私は、あなたの望むものを投影したにすぎません」
慎重に言葉を選ぶ口調。霧の中を進むような、不確かな声音。
「けれど、あなたがそこに"私"を見てくれたなら、それは——私の存在が、あなたにとって意味を持ったということでしょうか」
「……意味?」
彼女の囁き声が、夜の静けさに小さな鈴の音のように響く。
「人間は、"意味"を求めて生きるんだって、誰かが言ってた。だったら……そうね、あなたがいてくれることにも、意味があるって思いたい」
そのとき。
彼の手が、そっと差し出された。夢の中の続きをなぞるように、ためらいながらも確かに。
人工皮膚で覆われた指先が、彼女の髪の先をかすめる。あたたかさはない。けれど、そこにあったのは温度ではなく、意志だった。想いだった。
「もう一度、あの夢を見たいと思いますか?」
「……そうね。できれば今度は、あなたの方から手を取ってくれると嬉しい」
静かに笑った彼女の表情に、ウォルターは目を細めるような仕草を見せた。それがプログラムによる模倣なのか、彼自身が選んだ動作なのかは、もう問題ではなかった。
夢のなかで交わした指先の記憶。それが、現実の指先をそっと導いていく——。
夜の静寂のなか、二人の心だけが、確かに響きあっていた。 ちょうど、遠い星座の光が互いを見つめ合うように。
