助手とアロマセラピー

「……これは、効きましたね……」
 ステラ・メイヤー博士はそう呟きながら、手にしていた実験メモの端にさらさらと何かを書き足した。
 草花と土の香りと、空調が微かに唸る音だけが、グリーンルーム内に満ちている。
 彼女の視線の先では、ぴくりとも動かない“被験体”が床にぺたりと伏せていた。
 全身を艶やかな外骨格に覆われたその生物——ゼノモーフは、今まさに仰向けで微動だにせず寝落ちていた。いや、正確には“倒れた”と言ってもいい。
 ほんの数分前、ステラが試験管から揮発性のエッセンシャルオイルを滴下した直後、ゼノモーフは一度鼻先を近づけて、次の瞬間、すとんと音がしそうな勢いで寝落ちたのだった。
 その姿を見たステラは一瞬焦った。だが、調べてみると、心拍・呼吸・体温・筋反射……どれも異常なし。
 ただ、あまりにも見事な脱力ぶりだったので、思わず立ったまま凝視してしまった。
「……まさかここまで作用するとは。これは神経鎮静系……副交感神経経由……? でも、あの構造で副交感神経が存在するということは……」
 ごく真面目な顔でメモを取る博士の足元で、ゼノモーフは尾をゆっくりと曲げながら、完全にリラックスした"寝ポーズ"を取っていた。
 背中はべたりと床につき、長い指はくるんと丸まっている。ドーム状の頭部は横に倒れ、インナーマウスは完全に格納されたまま。表情に乏しいはずなのに、どこか満ち足りた寝顔にすら見えるから不思議だった。
「ふふ……かわいい」
 ステラは静かにしゃがみこみ、その黒光りする肋骨の隙間に指を添えてみる。
 浅い呼吸のリズムが手に伝わってきて、思わず満足げに頷いた。
 「この揮発成分、やはり脳幹レベルの反応を引き起こしてる……つまり、感覚器官が“安心”を感じる程度には嗅覚が発達してるってことね」
 くすりと笑ったステラは、ポータブル式の分析端末に次々とデータを打ち込みはじめる。表情こそ淡々としたままだが、その指は明らかに饒舌だった。
 そのとき――。
「……博士、一体何をしていらっしゃるんですか」
 いつの間に部屋に入ってきたのか、軍服姿のリディア・アマドール中尉が、フェイジョアの植木の向こうから、こちらにやってくるところだった。
 このグリーンルームの管理責任者たる彼女は邪魔な枝葉を手で押し除けた格好のまま、ぴたりと足を止めて、しばらく硬直していた。
 視線はステラの足元に転がるゼノモーフに釘付けになっている。
「……それ、寝てます?」
「寝てます」
「生きてます?」
「むしろ元気です。いま最も癒されている状態です」
 淡々と返すステラの横で、ゼノモーフがぴく、と尻尾を微かに動かした。そのまま、またスゥ……と静かな呼吸に戻る。
「なんですかその、森の中で野生動物が昼寝してるみたいな光景……」
「癒しです」
「博士、いいですか、“癒し”はあなたの免罪符でも万能ワードでもありませんのでね。あなた、また妙な植物を勝手に持ち込んだのでは……」
「持ち込んでません。育ててます」
「いけませんって言ったじゃないですか!」
 アマドールが駆け寄るより早く、ステラは試験管をさっと背後に隠した。
 だが、すでに部屋中にはあの柔らかな香りが漂っている。少し湿り気のある、土と花の匂い。けれど、どこか意識を緩ませるような、妙に安心感のある気配がある。
「なんですか、この匂いは? 脳がふわふわするような……これは合法なんでしょうね?」
「無害です。念のため、ヒトにもゼノモーフにも無毒であることは確認済みです」
「そういう話ではなくて、明らかに効能が強すぎるという話を……」
 その間にも、ゼノモーフはうっとりとしたポーズのまま、びくりとも動かない。
 床にめり込みそうな勢いでくつろぎきっているその姿に、アマドールは頭を抱えた。
「……博士、もしもゼノモーフがこの匂いを“快”と認識した場合、依存性の可能性などは?」
「それはそれで、面白い研究テーマになりそうですね」
「やめてください。それから、それは絶対に、絶対に船内に撒かないよう強く忠告します」
 ステラは実験メモを読み返しながら、静かに言葉を返す。
「わかっています。……ただ、たとえば、船内の緊急鎮静装置にこれを使えば、ゼノモーフの暴走リスクも——」
「使わないでください!」
 叫んだアマドールの後ろで、仰向けのゼノモーフがまたふにゃりと尾を揺らした。そこには、間違いなく"二度寝"に入ったような気配があった。

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