静かな午後だった。
船内クロックの針は「昼」を指しているが、オリガ号の人工照明は時の流れなど知らぬ顔で、変わらぬ白い光を天井に投げかけ続けている。その光は無機質で、どこか研ぎ澄まされた刃のような冷たさを帯びていた。
研究区画からほんの少し離れた、こぢんまりとした職員用キッチンスペース。今はただひとり、静寂を独り占めしている人影があった。
ステラ・メイヤーの細い指先が、白磁のティーカップの縁をそっと撫でる。眉間には困惑にも似た薄い皺が刻まれていた。
彼女の視線の先には、湯気を立てるマグカップ。その水面で、ひとつのティーバッグが、まるで意志を持つかのようにぷかりぷかりと浮かんでいる。
熱湯の中で、どうしても沈もうとしない。何度スプーンでそっと押し沈めてみても、ひょいと水面へ戻ってきては、しがみつくように揺れ続けている。
「頑固ですね」
思わず零れた呟きと同時に、背後で軽やかな足音が響いた。
「何が?」
振り返ると、コールが廊下の向こうから現れていた。静かに、けれど自然な足取りで近づいてくる。
「見学ですか?」
「音が聞こえたから。……水と格闘してた?」
「いいえ、ティーバッグとです」
コールは無言でカップを覗き込んだ。長い睫毛が一度だけ、ゆっくりと瞬いて。
「ああ、沈まないのね」
「そうなんです。中の空気が抜けないせいでしょうね。素材のせいか、ひときわ頑なで……」
「頑な?」
子鹿のようなあどけない顔に、わずかに笑いが滲む。
ステラは相変わらず真面目な顔のまま「物理的な意味ですよ」と補足しながら、スプーンでそっとティーバッグを押し沈める。
けれど手を離した途端、またふわりと、まるで息継ぎをするように水面へ戻ってきた。
「もしかして、そのティーバッグ……浮かびたいんじゃない?」
「そういう生命意志を想定するのは、非科学的です」
コールの声は軽やかだが、どこか真剣だった。
ステラの手が止まる。顔を上げると、コールは視線を壁の方に逸らしたまま、そっと目元だけを緩めている。
「沈んでると、息苦しいし。暗いし。下にいると何があるか、わからないでしょう。……だから、上にいたほうが安心ってこともあるよ」
「なるほど」
理屈としては理解できる。けれど、感覚としては、少し違った。
「私は、逆かもしれません」
「逆?」
「底に触れていないと、落ち着かないんです。沈んでいたほうが安心できる気がする。上にいると、どこまでも落ちてしまいそうで」
コールが彼女を見た。その瞳は深くて、機械のはずなのに、不意に人間以上の温度を感じさせるときがある。
「そっか。じゃあ、私が浮いてても気にしないで」
「ええ。ティーバッグも、コールさんも、そのままでいいですよ。抽出効率は、まあ、二の次ですから」
ティーバッグは、ぽこん、と小さな泡を吐き出して、またゆらゆらと漂っていた。
ステラはそれを見つめながら、ふと微笑んだ。ほんの少しだけ唇の端が持ち上がる。
それは彼女には珍しい、柔らかな表情だった。
「いずれ沈むときが来ても……きっと、そのときが“抽出のタイミング”なんでしょうね」
「それ、ちょっと怖い比喩」
「すみません。たまに哲学者ぶりたくなるんです」
「研究者なのに?」
「研究者だから、です」
ふたりは顔を見合わせて、声に出さないまま、息の交差で笑い合った。
誰もいないキッチン。変わらない白い照明。
ぬるくなりかけた紅茶の香りと、適度に冷えた空気。
マグの中で、ティーバッグはまだ、ゆるやかに漂い続けていた。
助手と技師と、浮かぶティーバッグ
