応急処置訓練と聞いて、多少はスリリングな場面を想像していた。血しぶき、汗、緊迫感——それらしいBGMまで脳内で流れる準備はしていた。
だが実際のところ、訓練室にはぬるい室温と、シリコン製のダミー人形がずらりと並ぶだけだった。
妙にリアルな肌質の人工皮膚を前に、ステラ・メイヤー博士は縫合針を握りしめ、シリコン製の皮膚と格闘していた。表情は真剣だが、縫い目はすでに迷子になっている。
そして隣のゲディマン博士は眉をひそめてその様子を見守っていた。
「で、君のそれは……なんなんだ? これは医療行為のはずだが」
芸術……いや、もはや呪術的な縫合跡を前に、ゲディマンは遠回しな表現に全力を注いだ。
彼女が生きた人間にこれを施さぬことを、心の底から願う。
「縫製は苦手らしいな」
「苦手です!」
即答である。しかも何故か、胸を張っている。
「なぜそこで誇らしげなんだ」
「メイヤー博士、もう少し静かに作業できませんかね」
飛んできた教官の声は低かった。袖をまくった腕にはまだ指導者としてのプライドが見え隠れしているが、滲む疲労と諦めが隠しきれていない。
彼は問題児ふたりを隣同士にした一時間前の自分を、いまごろになって全力で呪っていた。
「失礼いたしました」
ステラはすぐさま真面目な声で応じた。だが、そのまま無表情でゲディマンに向き直り、ひそひそ声で告げる。
「博士のせいで叱られたじゃないですか」
「君ほど上司への責任転嫁に躊躇のない人間は他に類を見ないな!」
ゲディマンが呆れて返すと、またも教官の声が飛ぶ。
「ゲディマン博士も! 静かに!」
「……失礼した」
この訓練はどうやら精神面の耐久力も試されているらしい。
「私、天才だから基本的になんでもできちゃうはずなんですけどね……」
ステラは縫合に再挑戦しているが、糸はまたしてもズレて絡まり、ダミーの腹部はどんどん悲惨な見た目になっていく。
「この惨状を前にしての自信は一体どこから来ているんだ?」
ゲディマンは本気で知りたかった。この女の鋼メンタルの由来を、遺伝子レベルで解明したい。
「そのセリフ、前にも別の人から言われた気がします。誰だったか忘れましたけど」
淡々と返すステラの指先では、またひとつ、糸がピンと弾けた。
とりあえず、あちこちで惨状を振り撒いて回っているタイプの天才らしい。
「ところで博士は意外と上手ですね」
「そうだな……きょうだいが三人もいるとこういったスキルが自然に身につくものだ」
「へー」
「あからさまに興味なさそうにするな」
「博士の家庭環境は世界でいちばん興味のない分野ですね」
ゲディマンは深くため息をついた。もはや真剣に取り合う気にもなれない。だが、言いたいことは一点に絞られる。
「君はその口を縫うのが先だろうな」
