助手とふたりと解剖学

 作業室の空気に、かすかに生臭い匂いが混じった。湿度を帯びた空気が鼻腔をくすぐる。金属と有機物のあいだを行き来するような、曖昧な香りだった。

「さて……これは一体、どうなっているんでしょうね」
 ステラは白衣の袖を肘まできっちりとまくり、銀色のピンセットで異形の小さな生物を持ち上げた。
 手つきには一切の無駄がない。まるで器具そのものが身体の延長になったかのような、洗練された所作だった。
 彼女の期待に満ちた眼差しを一身に受けるその生物は、蛙と甲殻類の中間のような形をしていた。
 だが目が多すぎ、脚は少なすぎる。体表には蛍光色の斑点模様が広がっており、見る者の警戒心を刺激するには充分だった。
 部屋の入口では、リプリーが腕を組み、壁に背を預けて無言でその光景を眺めていた。瞳に映るのは嘲りとも諦めともつかない色。
「……それ、どこから持ってきたの?」
「えっ、あ、リプリーさん。ええとですね、冷却配管の裏手に巣のような構造がありまして。偶然見つけたんです」
 ステラは顔だけをこちらに向け、ピンセットを持ったまま肩をすくめる。リプリーはゆっくりと目を細めた。
「偶然ね。その“偶然”の産物が、これ?」
「珍しかったので、つい」
 口元に浮かべた笑みは悪びれた様子こそないが、どこか無垢すぎて逆に怪しい。リプリーは片眉を上げ、皮肉っぽく笑った。
「妙なものを持ち込むなって言ったのは昨日だったと思うけど」
「覚えてます。でもあれは“湿気で膨らむ球体”の話でして、今回のは生物ですから、ちょっと別枠かなと」
「ずいぶん立派な詭弁だこと」
 ステラはやんわりと微笑んだだけで、聞いていないのか、聞こえなかったふりなのかは判別がつかない。
 手元の生き物をそっとスライドさせ、解剖台の中央に移動させる。

「その器官……消化器? でも場所が変じゃない?」
 斜めからの視線。隣で作業を見ていたコールが、身体を少し前に傾けて訊ねた。
 背筋はまっすぐ伸びていて、声のトーンも落ち着いていたが、その眼差しには静かな好奇心の熱が宿っていた。
「いいところに気付きましたね、コールさん。この個体、腸にあたる構造が上下逆転してるんです。たぶん、重力感覚が私たちと異なる環境で進化したのではないかと」
「じゃあ……それは肺の代わり?」
「可能性はありますね。肺胞に近い構造か、あるいは表皮呼吸の発達形かもしれません。ただ、内圧が不自然に高くて、中に──」
「爆発しなきゃいいけど」
 低く投げられた声。リプリーが眉をしかめたまま、ぼそりと漏らした。
「大丈夫です、ちゃんと保護ゴーグルありますから」
 ステラは自分の分を手早く装着し、すぐさまコールの分を差し出した。コールは何も言わず、それを受け取って目元にかける。
 すると、リプリーがふてくされたように口を開いた。
「……私のは?」
「見守ってるだけの人は必要ないかと」
「ステラ」
「冗談です。はい、どうぞ。ええと、それでどこまで話しましたっけ……ああ、そうそう」
 ステラはリプリーにゴーグルを手渡したあと、すぐに視線を手元に戻した。
 再び口が動き始めると同時に、専門用語がとめどなく溢れ続ける。語彙の密度が一気に上がり、熱を帯びた声とともに室温さえ少し上がったように感じられる。

 コールには、その半分も理解できなかった。けれど、ピンセットを握る指先の、わずかに早くなるリズムや、語尾にだけ現れる高揚が、ステラの心の動きを正確に伝えてくる。
「ごめん、内容はさっぱり。でも、こういうときのあなたって本当に楽しそう」
 コールの呟きに、ステラは照れ隠しのように小さく肩を竦める。
「そうでしょうか。ただ、知りたいだけなんです。どうしてこうなったのか」
 そのとき、背後からひとこと。
「せめて冷蔵庫にだけは入れないで」
 リプリーが重く沈んだ目で、まるで死んだ魚のような視線をよこした。
「標本として保存するにはちょうどいい温度帯なんですが……」
「私の視界に入ったら、その瞬間に捨てるから」
「じゃあ……冷凍庫に」
 ステラがぽつりと呟くと、リプリーの視線が鋭く突き刺さる。彼女はすぐに白旗をあげるように言葉を重ねた。
「冗談です」
 コールは目元を伏せて、くすっと笑った。
 いつも通りの、ちょっと変な朝だった。

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